6月1日の夜、私はたくさんの嘘をついた

漫画「うた恋い」に出てくる話の中で、壬生忠岑と満子の話が一番好きだ。

身分の違いゆえ、素性を隠して逢瀬を果たし、きちんと形式に則ったやり方で、ほんの一晩だけの間、互いに想いを懸けるという、そういう話…だった気がする。

 

超がつくほど真面目で純粋で、かつ優等生な私は、人との関係において火遊び的なことをしたことがない。そんなピュアにピュアを塗り重ねたようなこんな娘が、今日帰れない、というのを聴いて、電話口の母は一体どんな心地だっただろう。

 

こんなに近くに、こんなに長い時間一緒に誰かといるのはひさしぶりだった。

こんなに話す人だったかな、と思うくらい、その日の彼はよく話した。けれど私は、彼が沈黙を苦にしない人だっということを知っているので、多少会話が途切れても、あまり気にすることはなかった。何につけても詳しい説明を求めないし、したいこととしたくないことはきちんといってくれるから助かる。こちらが下した判断にも、嫌な顔を一つもしないでついてきてくれるし、楽しく過ごしてくれている(ようにわたしには見えていた)

 

どれだけ心に願っていても、連絡もよこさないような人を待ち続けているのと、会いたがってくれる人に甘えるのとでは、どっちが良いのだろう。美しいのは前者だけれど、健やかでいられるのは後者であるに違いないと私は思う。

 

 

はじめは、お互い壁に張り付くくらい遠慮がちに距離を取っていたけれど、それが解かれるのは時間の問題だったのかもしれない。お互いに、なにをどう思っているのか、わからなかった。私たちのコミュニケーションは、瀬戸際を歩くような感じで繰り返された。

 

抱きしめることが許されてからは、私は何度も彼の肩に腕を回して子どもみたいにしがみついた。一度でも相手の熱を知った体の側面は、自分でもバカみたいと思ってしまうくらい飽きを知らないんだと思った。少しでも離れると急に寂しくて、裾をぐいぐい引っ張ってねだった。同じことの繰り返しが起きていた。けど、それが一番、心を落ち着ける方法だった。

離してほしくなかった。1日だけ。今日、この日だけ。今だけこうできたらまた、文献と格闘する心苦しい日々に戻りますから。おねがい、見逃してください。

 

もしかしたら私は、彼の中に逃げ込みたかったのかもしれない。

 

人より平熱が高い彼の体に、ぴったりと体を沿わせるのは、気持ちがいいことだった。

寝っ転がって、私は彼の肩から腰まで何度も撫でて、体の形をちゃんと覚えようとした。人の体は、見ただけではわからない質感の違いがたくさんあるから、わたしはできるだけ、そういう風にして人の体のことを知りたいなとおもう。体がダメなら、せめて手だけでも、と思う。密度が高くてパンパンの手、薄くてほそい手、シワが多い手、陶器のような手。顔の記憶と同じくらい鮮明に、心に残っている人の手の形が沢山ある。彼の手は、ぎゅっと筋肉が寄り集まったような、握力の強そうな手をしていて、指先が器用によく動く手をしている。手のひらがおおきくて、全体的に均一な厚さでぺたんとしている。

わたしはその手が私に触れるときの絶妙な力加減まで、記憶に残したかった。

 

それだけの情動が、一体、心のどこにしまってあったのか、ちょっともう、よくわからない。

 

もうわたしの手のひらは彼の顔の大きさを知っているし、わたしの頬は彼の髪質を知っている。きっと何人もの女の子が触れたくて仕方なかったに違いないその体のことを、全部とまではいかないけれど、ちょっとくわしく知っている。


わたしの体が一番美味しそうだったときは19歳の時だった。アルコールを知らなかったし、内面の筋肉がしっかりついていた。それが最近、だんだんとゆるんできたのが、自分でも嫌というくらいわかる。このままどんどん枯れていくんだとわかっている。だから、完全にそうなる前に愛されてみたいのだ。

 

だから思う、これは自分を正当化しようとすることと違わないけれど。

誰だっていいというわけじゃない、でも、誰も彼もいやというわけでもないし、誰かじゃないといけない理由もない。今じゃないと、感じられないことが沢山あるんだと思う。それは、いいこととかわるいこととかいう分類ではなくて、その心と体を総動員しないとわからないことだ。きっとそれは、世間のどこにもつながっていない学生に許されている、人生の余白みたいなところなのかもしれない。例えば、あまりに退屈な授業の時間にたびたび発生する、プリントの隅っこの落書きによく似ている。

 

愛してみてよ。この世界にはわたししかいない、みたいにさ。

 

 

 

 

わたしは、彼に彼女がいるか聞かなかった。そういう、現実確認っぽいことをしたら、一瞬で全部魔法が解ける気がしたから。そんなことは今は考えたくないと思った。その種明かしは、今後も一切受け付けないつもりだ。

 

どこにも接続されない夜は、ゆっくり眠気に霞んでゆく。