カントリーマウムの中に髪の毛が入っていた

 

さいころから、カントリーマウムが大好きだ。味が安定しているし、食感がいい。クッキーにありがちな奥歯の溝に挟まって舌でべろべろするというようなことが必要ない。わたしはあのソフトクッキーをちょっとずつ口に含みながら溶かして食べるのが好きだ。けど、その日は急いでいたから、ぱくんと一口で食べてしまった。口の中の違和感に気付いたのは、大半を飲み込んだ後だった。あ、なんかいるな、と思って指でつまんで出してみた。そうしたら、それは一本の髪の毛だった。私の髪よりもずっと細くて、くるくるとしたくせっ毛だったので、たぶんこれは私の髪の毛じゃないなと判断した。だからきっと、カントリーマウムの工場で働く誰かの髪の毛なんだろう。

 

それは別に、汚いと思うほどのものではない気がした。

むしろ、カントリーマウムの製造過程に人が介在していることを唐突に突きつけられ。はっとした。

私の乏しい創造力では、カントリーマウムの製造過程のどこの段階に人の手が加わるのかがわからない。わからないけど、確かに人がいるんだな、と思う。一体、誰なんだろうな。その人、普段何してんだろうな。

かつて日雇いのアルバイトを経験したことがある、ぜんぶで三回くらいやったと思う。どれも工場だった。その中の一つに、冷凍食品の袋詰めというのがあった。これは人のする仕事じゃないと思うくらいしんどかったことを今でも覚えている。8度くらいの冷蔵庫にはいって、凍えながら、右から流れてくるビニール袋に加工されている品物を詰めていく、そういう作業だった。ぼーっとしてはいけないとわかっていても、寒さと単調な作業のせいで次第に意識がもうろうとしてくる。そのうち、規定通りの数を入れたかわからなくなって、自分が担当している野菜だけ一つ二つ余ったりする。いやな予感だ。呼んでもないのにどこからか、なんだか怖いおじさんが来て、低い声で何か言われる。「こういうことのせいでぜんぶ数え直しなんだぞ」とか、そういうことだったと思う。でも、寒くてそれどころではなくて、こんな労働は早く終わればいい、わたしの知ったことじゃないと思っていた。

その袋詰めされた野菜たちは結局何ものなのかというと、某食料品通販サイトの商品だ。その袋に入っている野菜を全部入れれば一品完成するというものだ。誰かの「便利」は、工場で働く人たちの人たちのしもやけ手とかじかんだ足先、それから過剰に委縮してしまって血が通わなくなった心の上に成り立っているんだってことをわかってなくちゃいけないんだと、小娘ながらに実感したのだ。その後大学の「消費社会論」という授業の中で、その会社のそのサービスが良い事例として取り上げられていたのを見て、そんなのはうそだと思った。労働社会学の俎上にのせてみろ、こてんぱんにやられるぞ。

ともかくこういう経験があるから、わたしの「工場」というもののイメージは、何か大きくて個人などがないがしろにされているような空間、というものだ。カントリーマウムの中に混入してしまった髪の毛の持ち主も、そんな大きな工場で働いているんだろうか。日がな一日カントリーマウムを見続けているんだろうか。生地が練られているのを見ているんだろうか。正常にプロペラが動くようにと、日々日々……

わたしは大学生なので、工場の仕事はもうこりごりだと思ってすぐに止めることができた。けど、例えば主にこういうことで生計を立てている人だって少なからずいるだろうと思う。例えば別の工場で、そこでは箱にひたすらシールを貼る作業をしていた。そこで、いろんなところから呼ばれていろんな仕事を任されている外国人の女の人がいた。私よりも少し年上くらいの人だったと思う。仕事を任されるといっても、段ボールのを型を抜いたり広告の束を作ったり、紙を裁断したり、というものだった。そこは、休憩室もろくにないようなほんとうにちいさなさびれた工場で、感じの悪いお局みたいなパートが二人くらいいて、その二人が始終ピリピリした雰囲気を醸していた。いいとは言えない環境の中で、彼女は言葉もよくわかっていない様子で働いていた。思い出すたびに、心がしん、としてしまう光景だ。

 

 

憶測にすぎない。けど、わたしたちの「便利」とか「おいしい」とか「楽しい」とか、の裏側には、必ず上に書いたような地味な作業がある。そして、そこで働くひとたちはめったに前に出てこないうえに、たぶんあんまりお金をもらっていないのだろうと思う。それで・・・・今日みたいにカントリーマウムに髪の毛が入った日には、場合によっては大さわぎになって、きっととても怒られるんだろう。マックのポテトに誰かの歯が入っていたりするときみたいに。

人が作ったものなのに、人の痕跡を消したがる。なんだかそれは、とても自己中心的で人間らしい、と思う。でも確かに、歯とか爪とか髪とかは、単に痕跡ということ以上に衛生的によろしくなという面は確かにある。もちろん、できるだけ入るべきではない。でも、入っていたからといってそんなに怒るほどの事だろうかと思ってしまう。「だれかの跡」とは、そんなにいやなものかしら。

 

これまで何度か混入事件に遭遇してきた。食パンに練り込まれた小さなほこり、刷毛から抜けてしまったのだろうと思われる極太の毛がショートケーキに挟まっていたこともあったし、友達の手作りクッキーにラップが練り込んであったこともあった。他愛ないな、と思う。

そこに人がいるということを感じないように馴らされていて、いつの間にか、人がいることに驚くようになってしまった。そんな自分のことを、少し悲しいと思った。

そりゃいるよ。「おいしい」がここにあるんだものね。「楽しい」があるんだものね。

 

そういうのを生みだせるのは、人であってほしいと思う。いくら技術が発展しても、人工知能が幅を利かせても、わたしはきっと、人の体温を求めるだろう。百歩譲って「便利」のフィールドは技術に譲ってもいい。けど、おいしいとか楽しいとか、そういう分野までは、技術に明け渡してほしくない。

いやだ、いやだよ。これは半分意地だ。人間としての意地だ。

「あっ、なんだ。そこにいたの」

他者に対してそういってしまうような優しくない未来を、わたしはあまり望まないからだ。