「エモ」という感性とその背景

 

「だらしない男女関係にタバコやら夏やらが絡んだとたん「エモい」と形容する価値観にきちんとキショいと思えるようになってからが大人のはじまり。」
というツイートを見た。
近年若い人たちが感情を説明するときによく使う言葉「エモい」に対する抗議の当該ツイートに、わたしは確かにそれは一理あるよね~と思いながらいいねをした。

当該ツイートに連なるリプライは「エモ」不支持派が多いように見えた。日本語にはもっと様々な感情を表現する言葉があるのに一言でエモだと片付けるのは感性の衰退だと警戒する人、だらしないだけのことをもっともらしく「エモい」と名前をつけて愛でるなんておかしいという人、チープで陳腐な価値観だとエモ自体をディスる人、などなど。

 うん、確かにそれらにも一理ある。が、今まで使ってきた言葉では説明できなくなったからこそ「エモい」という感性が生まれたと考える方が自然なんじゃなかろうか。わたしがこれからするのは「エモ」がいいか悪いかではなくて、なんで「エモ」が生まれたんだろうという話だ。

 その時代によって新しい感性が生まれることはごく自然なこと。例えばずっとずっと遡れば女流文学栄えた平安期には、女の人の日記や文学作品から「あはれ」や「をかし」という感性が生まれた。室町時代になればワビサビという文化様式が根付いたし、江戸時代には庶民によって「粋」という感性が育まれた。何もそんなに遡らなくても、平成の時代だけでも「萌え」や「カワイイ」という感性がより洗練された時代だったことは記憶にあたらしい。

 現代社会に目を向けてみる。多くの学者が述べるように、現代社会の進歩のスピードは秒速。とりわけインターネットやスマートフォンSNSの発達でコミュニケーションの取り方は大きく変化した。人と人との間で取り交わされるコミュニケーション様式が変化したのだから、人の人への感情が刷新することは至って自然な流れだ。個人的には好きではないが、エモいという感性はポップな対人関係の影響を強く受けた感性なのではと考える。

 

 と、いうわけで、わたしは「ああ、令和はエモの時代なんだなあ」と思いながら過ごしている。人によってエモ論は数々あるだろうけど、ここではわたしのエモ論に耳を傾けていただければ幸いだ。
 まずわたしがエモの親戚としてまず思いついたのが「切ない」という感情だ。しかしこれだとちょっと重たすぎる。エモはもっとライトというか、どこにでもありそうで、ひょっとしたら自分の身にも起こりそうなちょっとした感情の歪みなのではないかと思う。「エモ」はちくりと心を刺す(しかし絶対に致命傷にならない)痛みであり、それはスナップ写真のように何気ない静止画的なものだ。妬んだり執拗に追い回すとそれはメンヘラ、病みといった別の感性に取り込まれていくが、エモはあくまでじんわりと傷心を味わうだけで、それ以上進行しない。ほんの少しの間その出来事や間柄に陶酔する余裕があるくらいの痛みがエモである。


 この感情が生まれた背景は、なんだろう。わたしはごく個人的な妄想にすぎないけれど、大きく分けて3つの社会の変化があると考えている。

 ひとつには、いつでもどこでも繋がれる人間関係が可能になったことだ。かつては「この人を失ったらもう会えない」と考える要因がいくらでもあった。それは越えられない距離だったり階級差だったり、コミュニケーションツールの不足だったりした。わざわざ痛みに酔わずとも、人を思う痛みを抱きしめることができていた。しかし現在は人との間柄を引き裂く物理的な課題はほとんどクリアされ、一部の特定の社会を除いてはほとんど自由に人と会えるようになった。会わなくてもSNS等でつながっていることができるため、「もう会えないかもしれない」と思う切迫感を抱くことがほとんどなくなった。おそらく多くの人間関係が「会おうと思えばいつでも会える」状況に置かれているだろう。

 

 次に、「みんな違ってみんないい」が浸透した個人社会の影響も見逃せない。個人ずつが多様性を自覚し始めた社会においては、「大衆から称賛を得たい!」という大きな夢は承認されづらい。それよりもちょっとニッチで誰もやったことがないような、より個人的で独創的な試みが話題になる。小さなコミュニティを作ることも簡単で、そこで成功できればある程度の承認欲求を満たすことができる。その反面、なにはともあれ二言目には「みんな違ってみんないい」でまとめあげられる世界でもある。


 最後、それに追い打ちをかけるのが、お金をかければ大抵のものが手に入る資本主義だ。お金を出せば大抵のものが手に入るし、望みがかなう。容姿のコンプレックスは資本で解決することができる。モノのレンタルならまだしも、感情や関係性をレンタルするサービスも増えてきた。資本に還元できないものを思い浮かべるほうが難しい。資本によって日々の不満や不安は可能な限り取り除くことができるのだ。(現代社会のみんながみんな資本主義のプレイヤーかどうかはさておき)

 

 ここに挙げた社会の特徴、リベラルな人間関係や個人主義、そして資本主義という要素は、痛みやつらさが丁寧に取り除かれた社会を形成する。エモという感性が生まれた背景には上記のような満たされきった痛みの少ない社会の構造があり、エモとはそんな社会の中で無理やりにでも自分の「生」に必然性を付与したいがために生み出された感性なのだとわたしは考える。このまま、満たされ切った社会でどんどん生きる感覚を奪われ続けるくらいなら、自覚的に痛みを感じてしまおうというわけだ。

 だから「エモーショナル」、「感情」「主情的」なのである。その人の内面に湧き上がる、その人にしか味わうことができない「感情」を自分のものにしていこうとする、そういう心の働きこそが「エモ」なのだ。それは精神的な自傷行為でありながら、ありふれた人生を引き受けるために必要な感性でもある。(一方で、個人的な感情を「エモ」という言葉で共有可能にしたのは大発明なような気もする。例えば最初のツイートの「だらしない男女関係」が示す内容は様々だが、「エモ」が何たるかを知っている人同士のコミュニケーションでは「エモいよね」というだけで「ああ、エモいね」となる。たとえそれを経験してなかったとしても、だ)

 

 さて、自分自身が「エモ」に陥ったことがないのでこの文章のほとんどが憶測や偏見に満ちている。証拠も参考文献もないので、突っ込みどころが満載だ。ときには、そんな文章を書いてみたくなるんだよなあ。

 わたしが「エモ」という言葉を初めて聞いたのは2年前。その頃はまた奇妙な言葉が出てきたな、とだけ思ったが、最近音楽や写真を評価するキーワードとして「エモい」という言葉を頻繁に目にするようになり、気になり始めた。「エモい」は、「やばい」などと同じように定型化していくのか、死語になるか、どっちだろう。まだまだ発展途上なこの感性は、いったいどこまで育つのかな。