諦めること

 

生きて踊ろう、僕らずっと独りだと諦め進もう

1人歌おう、悲しみの向こう 全ての歌で手を繋ごう

生きて抱き合おう、いつかそれぞれの愛を重ねられるように

 

紅白歌合戦星野源が披露したパフォーマンス「うちで踊ろう(大晦日)フルバージョン」は、すっかりいじけてしまった2020年の私に気持ちよく別れを告げさせてくれた。

https://youtu.be/j3q1V3QHSU4

 

「みんなで頑張ろう」「みんなで我慢しよう」「みんなで協力すれば乗り越えられる」、そんなメッセージばかりが発せられた2020年。星野源の「うちで踊ろう」がSNSで流行し始めたころは、そのバリエーションに過ぎないと思っていた。「うちで踊ろう」を初めて聞いたときは、そんな歌で慰められても自粛期間がつらいことに変わりはなく、何の支えにもならないと思っていた。その曲を聞いて楽しい歌で前を向ける気分では到底なく、踊れるわけないと両足を抱え込んで部屋の隅でうずくまっていた。

 しかし紅白でのパフォーマンスで星野は「みんな」をあっさり棄却し、「独り」を選ぶ。「諦め」という言葉がこんなに清々しく、ほっとするような意味で使われることに驚いた。きっと多くの人が安心させられたのではないかと思う。わたしは星野源のファンではないが、「みんなで我慢」するのではなく、「独りだと諦める」方向を提案してくれたこの曲には感謝している。

 

 最近、重度の胃腸炎にかかり(これを書いている今もどんよりとおもだるい下腹部にいつ雷のような激痛が走るか戦々恐々としている)、数日寝込んでいた。昔から体は丈夫な方だったし、数日間寝込まなければ体がつらいという不調とは無縁で生きてきたのに、情けない。痛むお腹を抱えてうずくまりながら、今後一切こんなことで苦しまないよう生活を節制しようと誓いを立てると同時に、そのために我慢しなければならないことがたくさんある、と思うと鬱々とした。どんなにおいしくても食べ過ぎないよう我慢したり、どんなに楽しい席でも飲みすぎないようにしたり、夜更かしをしないよう我慢したり・・・。などなど。

そう思いを巡らせているとき、自分が、我慢、我慢とばかり思っていることに気付いた。少し立ち止まると、それは人間の自然な生命の流れに抵抗することのように思えた。

  これからどんどん体は衰えて、いろんなことをあきらめなくてはならなくなるだろう。加齢とともに消化機能が落ち、食べられる料理や量が限られてきたという話はよく聞く。体力も落ちる一方だから、8時間も9時間も座って鈍行で移動する青春18きっぷの旅もできなくなるだろう。いつか目も見えなくなって、本を読むのも苦労するようになるだろうし、自分の脚だけでは立てなくなる日も来る。

そうならないよう日頃から十分ケアすることは大切だが、本当に無理になったときには、素直に諦めるのが得策かもしれない。

 子どもの頃は身軽で何も持っていないから、とにかくたくさん得るために何事も「挑戦!」「諦めない!」が美徳とされているが、大人になったらそうじゃない。ある程度大人になって、両手に抱えた荷物(財産、技術、人間関係、多くの経験と知識)が増えたら、次は手放すこと―諦めることを覚えたほうが、素直に生きられるだろう。

 と、考えると諦めることは挫折や断念なのではなく、自分の限界や向き不向きを見極めることだともいえる。実際に仏教には「諦念」の概念があり、それは「物事の本質を見極め、諦めること」であり、「諦」という字には「物事の真理を明らかにする」という意味があるそうだ。

 

 

生きて踊ろう、僕らずっと独りだと諦め進もう

 

高度に成熟した社会、誰とでもすぐ繋がれる発達した情報技術、人とのコミュニケーションやつながりを重視するサービスの数々。それらに埋もれて見えなくなっていた事実―僕らはずっと独りなのだ。

それは、新型感染症の拡大という同じ危機にさらされた人々が取ったリアクションの多様さに、まざまざと表れている。本当に社会の連帯が取れていて、「独り」の人がいなかったら、もっとヒステリックに同じ方向に突っ走っていたことだろう。戦時中がそうであったように。

 独りだと諦めて進むのは、連帯や協力を拒否することではなく、人がそれぞれの立場で考え行動しているのに対して、実体のない「みんな」の言葉を借りて個人の正義を強いるのをやめることだ。それはこのコロナの状況下においてのみ言えることではなく、成熟社会をしなやかに生きる人間の生き方として重要な「諦念」だ。

 もちろんみんなが諦めてしまう必要はない。分かり合えるはずと思って説得し続ける人の熱量には惹かれるし、鬼滅の刃みたいに長男的価値観や純粋で優しい正義を改めて愛でる一大ブームが巻き起こっても面白い。

 

 ともあれ、数日間に及ぶ腹痛がもたらした「諦め」の感情は、私がこの苦痛の中から拾い上げた希望なので、大事にしたい。まずは自分のことから諦めることからはじめよう。経験や夢を一つずつ、標本箱に収めるように。それは今まで確かに手元にあったもの。追いかけなくなったからといって、失うわけではないのだと思う。