探していた物語


 小学校高学年から高校を卒業するまで、わたしは半分物語の中に浸りながら生きていた。今ではだいぶ現実が忙しくなり、物語を空想する機会が減ったけれど。

 読み返してみると、自分が好きなものだけかき集めただけあって、どれも悪くない。ストーリーは陳腐なものあるが、中学から高校にかけて書いたショートショートを集めたbouquetというシリーズは気に入っている。主人公の性格や属性がバラバラな恋愛ショートショートを集めたシリーズだ。大好きな友人がカバーをデザインしてプレゼントしてくれた宝物で、製本された状態で手元にある。

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下記はその中の物語に出てくる一部。

 

祭りの喧騒が遠ざかる。世界から離脱する感覚。今わたしをここにつなぎとめているのはたった一つ、君の手だけ。 

なんて頼りないことなんだろう、なんてドキドキすることなんだろう。

思っていても言わない。言葉にするのは、壁を作るのと同じこと。

ねえ、君、今どんな顔してるの。

 これは、お祭りの日に友達とはぐれた少女が好きな人と偶然会い、祭り会場から離れた公園で線香花火をするという話。

 

  はたまた、こんな文章もある。これは小鬼の少年が都の賑わいに心を惹かれて見物に来たのを、人間の少年が誘い出して一緒に街で遊ぶというワンシーンより。

 

差し出された月のように清く光る少年の手を、子鬼は恐る恐るとってみた。それは驚くほど、しんと冷たかった。

この話は、鬼、陰陽師、狩人の娘、狐憑きなどが出てくる物語で、中二病的モチーフをより集めたような構成がちょっぴり恥ずかしいけど、なんだかんだ好きな話だ。

 

 物語は、知らず知らずのうちに自分の欲求を映し出す。この頃私が書いていた物語には、自分が生きている世界にうんざりした主人公が、誰かに手を引かれて逃避するというモチーフがよく登場する。今こうして読み返してみると、授業中教師の目を盗んで書き溜めていたこれらの物語にわたしが閉じ込めていたのは、「誰かに手を引かれて日常から離脱したい」という願望だったのだと納得できる。

 

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 24歳の誕生日、私は思いがけずその物語を体験することになった。

 ちょうど昨年の今頃から親交を深めてきた大好きな人がいる。今年の2月の頭に会った日に、私の誕生日を一緒に過ごそうと約束してくれた。「あなたの誕生日、俺にくれないかな」というその一言はきざなのに、照れ隠しのように笑って言うから全然カッコついてなくて、でもぎゅっと手を握って頼み込むほど真剣だった。そのちぐはぐさは、嘘がなく誠実だった。

 

 当日、東京駅で私の手をぐいぐい引く、有無を言わさない力強さを、私は忘れることができない。その足の先には新幹線の改札があって、思わず立ち止まる私に、彼は切符を差し出した。

 行先は新潟。

「さ、いくよ」

 彼は普通の改札を通るみたいにこともなげに改札を通っていく。ここを通ったら、私、新潟に行くんだ。

 突然の出来事になると、頭が働かなくなるというのは本当だった。嬉しいとかそういうの以前に、何が起きているのか分からない。胸の音だけうるさく、身体が熱い。

 その時の私には、新潟に行くという決心はついていなくて、改札の向こうで彼が待っているというだけで改札に切符を通した。改札に新幹線の切符を差し込んで通るとき、それは本当に、「現実から離脱する感覚」だった。改札を抜け、彼の手を取る。自動改札機の向こう側で、私をこの世界に繋ぎとめているのはその手だけだった。

 ああ、本当に、なんて頼りないんだろう。だけどその頼りなさは、心細さや不安とはまた違っていた。行った先に何があるかわからない。同居している両親に何も言っていない。準備も何もしていない。だけど、今手を繋いでいるこの人がいるなら何もかも大丈夫という気がした。彼の手だけしか拠り所がないこの「状況」が、頼りないだけで、彼自身はじゅうぶん頼りになる。それなら、彼の手だけを頼ればいいだけの話だ。言い換えればそれは、この2日間だけ、日常のなにもかもから自由になって恋をするということだった。

 

 ホームで買った駅弁と缶ビール、どんどん変わっていく車窓の景色、地方都市の駅のホームに滑り込む新幹線。新潟駅に到着してホームに降りると、暖房で火照った頬に、冷たい風が心地よかった。

 旅の間中、いろんな話をした。音楽の話、政治の話、噺家の話、家族の話等々。まだ親しくなりきれていなかった頃は、何をどう話していいか分からなかった。今では、話にちゃちゃを入れて見たり、わからないことを素直に聞いてみたりできるようになった。自分の話もできるようになった。楽しかった瞬間はたくさんあるけど、全部ここに書くのは野暮だから、とっておきは手元の日記帳にだけ書いてある。

 

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 太平洋に面している海がある県に住んでいる私にとって、日本海はちょっと特別だ。2日目の朝、6時に起きて海辺に散歩に行った。太陽は街の方から昇った。町を見下ろす高さの坂の上から見上げた薄い紫色に染まる空と羊雲は、時間が許せばいつまでも見ていられただろう。

 浜辺へ降りると、海岸から海の上の遊歩道のように沖合にまで伸びている道があった。潮が満ちる時間は危険なためか、立入禁止の看板があったが、その道の先で普通に釣りをしている人がいたのでその看板の実効性はあまりないのだろう。

 彼はやすやすと看板を乗り越えて、手を差し出した。昨日東京の改札を抜けたときに似た決心がついて、私も看板を越えた。一人で来ていたら、絶対に入らなかった。線を越えたときにぎゅっと力がこもる掌が頼もしく、愛おしかった。私が、誰かから「だめだ」と言われて簡単に諦めるところを、彼は平然と乗り越えて先に行き、こっちへおいでと、私の手を取る。

 

 遊歩道へ一歩踏み入れると明らかに波の音が一層大きく聞こえ、その音に足がすくんだ。本能的な恐怖とはこのことだ。うねる波がとても粘着質に私の脚に絡みついて、そのまま私を海へ引きずり込むのではないかと思った。波は怖かったが、遠くで白波がきらっきらっと光っているのを見つけたら、だんだん気持ちが落ち着いた。全身に潮風を受け止めて、果てしなく広がる海を見つめていたら、こっちに来てよかったと思った。

 

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 今までずっといい子でいて、良しとされる規範から逸脱することはなかった。その学生生活を後悔はしていないけれど、どこかでもっと違う世界を見たいとも思っていた。だから、誰かに連れ出される虚構の物語を、何度も何度も書いた。思春期の私が探していた物語を、今現実としてこの身体が受け取っている。

 私が書いた物語は、夢落ちや、それ以降二人が再会しないバッドエンドを迎える。だけどこの2日間は夢落ちではなかったし、私は時間をかけて彼にこの物語のお礼をしなくてはならないから、これからも彼に会い続ける。とても楽しみな日々が続く。

そうなんだ、ただひたすら、続けばいい。

まだ24年目の人生だ、結末を急ぐことはないだろう。

 

 

 


バイザラウンド - 12月に当然の事を言う