夕暮れと春風と交差点

 3月に入って日が長くなってきたことが、ここ最近で一番うれしい。

 私は、午後の4時から5時にかけて日が暮れていく時間が好きだ。その時間帯をゆっくりと楽しむには、春と秋が最適だ。夏だとまだかまだかとじれったくなり、冬だと駆け足で通り過ぎていくその時間に追いつけず、また逃してしまったと悔しい思いをする。やはり、暖かい日が増えてきた春の初めか、長袖一枚では心もとないと感じるようになる秋口が、夕暮れの見ごろともいえる季節だと思う。

 そんな時分に帰路についている日というのは身も心も健やかで、足取りが軽い。小学生や中学生の下校時間と重なって、まちに子どもがあふれかえっている風景に出会えた日には何も言うことはない。

 昔の自分を見ているなつかしさはもちろん、自分が通っていた中学の制服を着ている生徒を見かけると、昔の自分を誰かが引き継いでいるような気持になり、何とも言えない。あの卵の殻の内側みたいな質感の白い壁と床の廊下とか、砂埃が舞う校庭とか、入っておいでと誘いかけるようなカーテンの中の陽だまりとか、あれらはまだ健在なのだろうかなんて、懐かしく思い出す。

 そして何よりも、あの自由奔放でずるがしこく、ときに生意気だが憎めない子どもという存在が、確かに社会の中で躍動している様子が垣間見えると、茫漠とした荒地に若葉が芽吹いたのを見つけたかのようで嬉しく、安心する。大人がいて、子どもがいて…そうそう、こうなっていたほうが、まちの風景はずっと豊かだ。

 

 最近、すごく楽しい子どもとの遭遇があった。

 バイト先から自転車で帰っていた日のことだった。大きな通りで4本の道路が入り組み複雑な信号の切り替えがある交差点で信号が青に変わるのを待っていたとき、ふいに子どもの絶叫が聞こえてきた。繰り返し同じトーンで何度も叫んでいる。よく聞いてみると、ひろきだかひとしだか、友達の名前を呼んでいるように聞こえる。背丈からして小学校中学年くらいだ。あまりに熱心に友達の名前を呼ぶあまり、変声期前のあどけない声はよく裏返った。遊んでいる途中にきっと、そのひろきだかひとしだかいう友達とはぐれてしまったのだろう。

 時刻は午後4時半、ゆっくりと夕暮れが忍び寄る頃だ。ちょうどそのくらいから雨が降るとその日の天気予報にもあったとおり、遠い空から夕暮れとはまた別の闇が迫ってきていた。春の湿気を含んだ暖かい風の匂いというのは、これまた名前を付けたいくらいノスタルジックで、記憶にはないけど遺伝子が覚えているみたいな類の匂いをしているものだが、この日もまさにそんな風が吹いている日だった。

 夕暮れと雨雲が同時に迫る交差点は不安定で独特の緊張感があった。そんな完璧にしつらえられた舞台に突如響く、少年の絶叫。そんな場面に遭遇したのだ。

 彼にとって、一緒に遊んでいた友達とはぐれるというのは、きっと大事件に違いない。あの年ならスマホを持っていないのかもしれない。彼らがどんな遊びをしていたか私は知らない。ただ、こんな不穏な夕方にはぐれてしまっては、心細いに違いない。もしかしたら、はぐれてしまったことに負い目を感じているのかもしれない。私は夕暮れと春風と交差点を介して、彼の心細さを一瞬共有した気がした。少年たちの物語に引き込まれてしまったみたいで、私はそれが妙に楽しく、嬉しかった。まるで、そういうフラッシュモブか演劇に巻き込まれたかのような気分で。

 もちろん彼らに声をかけることもなく、そのまま後を追うこともなく(どちらの行為も不審者と言われたら言い訳がたたない)、私はその交差点を渡り、彼らの不安を素通りした。素通りしてしまうくらい私はもう十分な大人で、彼のように誰かの名前を必死に呼んで探すことはないだろうと思いながら。世界の中心に自分がいて、すべてが劇的に見えていた幼少期を懐かしく思い出しながら。

 しばらく自転車を走らせると、小学生・中学生の私が歩いた通学路と重なる。あの頃は、自分が自分の世界の中心で、交差点を渡る他の大人のことなんか気にしなった。だけどその日私は、友達の名前を呼ぶ少年の世界を外側から眺めて、ああ、私って大人になったんだなと思った。今ではもう、自分が世界や物語の真ん中にいるとは思わないし、人目をはばからず声を枯らして人の名前を呼ぶなんてこともしない。ああ、大人になったんだな。そうして私は、子どもの頃の私と今の私は、地続きでありながら全然別の人間になったことを不意に悟った。

 

 夕暮れも春も交差点も、何かから何かへ渡るときの、ぼやっとかすんだ時空間である。そんな、境界が曖昧な風景の中を横切ったあの少年は、もしかしたら天使なのかもしれない。絵画によくある天使のように穏やかな表情ではなかったけれど、あの場面であの劇的な風景に人(私だけかもしれないけど)を引き込むのは、天使の仕業であるとしか思えない。

 かわいい子どもだから天使だとか、そういう安直なことではなく、風景を劇的にしたり、ふと思索に立ち返らせる存在こそが天使だと言いたいわけだが、そんな存在そのものが稀少であるうえ、彼らを見つける視力も徐々に衰えつつある。彼らが住まうことができる環境も、取り壊されている(もしあの少年がスマホをもって友達と連絡を取れていたら、天使はいなかったのだろうか?)。

 

 わたしの中の天使はとうに死に絶え、もう遺書とかちぎれた羽みたいなものしか手元に残っていないけれど、せめてこんな風に自分の日常生活を通過する天使を、少しでも多く見つけてみたい。そう思えば少しは緊張感と楽しみをもって生きられるんじゃないかと思うのだ。

 

 


3 Tempestoso(松本望:「天使のいる構図」より)