犬派か猫派か、という問いがよくある。
さして話したいこともないときに、こういう、どちらの方がいいかという話題に人は流れがちだ。ほかにも山派/海派かとか、きのこ派/たけのこ派かとか。大人になってからは日本酒の甘口/辛口かという話にもよくなるし、私も好んでする。懐石料理とか食事と合わせるなら辛口のほうが好きだけれど、珍味を肴にお酒を楽しむんだったら断然甘口だな。初めて日本酒を飲んだのは長崎の一人旅のとき。中華街のはずれにある地元民しか行かないような古い蕎麦屋でのことだった。六十餘洲という長崎の地酒は、メロンみたいに甘くてびっくりした。
お酒の話は、今はどうでもいい。今日は猫と犬について話がしたい。
幼いころは猫に憧れがあった。猫を飼っている人とか猫そのものとか、生まれ変わったら猫になりたいと豪語する人とか、猫がモチーフのグッズとか、それらをたくさん持っている人とか‥そういう人に、うすぼんやりと憧れを抱いていた。たぶん、猫のクールさ気まぐれさ、あまり人に媚びないところなど、猫に対してどこか「かっこいい」というイメージを抱いていたせいだと思う。
あと、大好きな作家が猫をとても魅力的に書いたことも影響している。竹下文子の「黒ねこサンゴロウ」シリーズは大人になってもたまに読み返すほど好きだ。きざでクールな主人公の黒ねこサンゴロウが大好きだった。村上春樹が、猫に触れたときのことをとてもすてきに書いているのを読んで、いいなあと思った。
え?2019年にセットで販売していたの…!
そんな憧憬とは裏腹に、悲しいかな、体質は猫を拒絶する。
熱海に行ったときに猫とじゃれていたら目が腫れてかゆくなってしまい母親に「金輪際猫と関わるな」と言われた。猫アレルギーだったのだ。だけど、ダメと言われると余計にうらやましくなる性質で、しばらく猫へのあこがれが心のどこかにあった。
そんなだったのだけど、成人してからは断然犬の方が魅力的と思うようになった。魅力に優劣をつけるわけではないけども、好みとしてやっぱ犬だな~と思うようになったのだ。
なんでだろう、突然文脈に「犬」がさしはさまるとひょうきんで和やかになる気がするのだ。例えば…何でもいいのだけど。
私は紅茶にミルクをいれながら、窓の外に目をやった。広場のようになっている中庭に、一匹の犬がいる。犬は日陰を探していた。尻尾を陽気に振りながら、ひとりきりだというのに笑ったように口を開けて、うすいピンク色の舌を出している。
ここに出てくるのが猫だったら、和やかではあるがひょうきんではない。猫人間と一対一で対峙するのがとても上手な動物だ。もしここにいるのが猫だったら、と想像するととても静かな風景になったとおもう。だけどやっぱ犬がいいなあ、と思う。犬のあのあけっぴろげな「犬です!!!」という感じは遠目に眺めていてもにぎやかで愛らしい。
私の家には一匹の小さな犬がいる。今年で16歳になるヨークシャーテリアだ。
子犬の頃は父親の手のひらに全身がすっぽり覆われてしまうほど小さかった。成犬になっても2.5キロを超えることはなく、子犬のような姿のままだった。いつも散歩ですれ違う人に「何か月?」などと訊かれる。
この犬にはいちおう血統書もついていて、両親は犬の競技大会で優勝する実績もあるくらい、いわゆる「いい犬」だ。本来だったらブリーダーのもとでレース用に育てられたのだろうが、神奈川の片田舎のペットショップに売り飛ばされたのは、生殖器の具合と、後ろ足の具合があまりよくなかったからだ。「あまり丈夫ではない」と店員に言われたが、家族のだれもが「そんなことはどうでもいいから飼う」と思った。それくらいその犬は可愛かった。
ペットショップのショーケースの隅っこで昏々と眠っていた、小さな犬。
本当に愛想のない犬で、餌もろくに食べないしほとんど眠っていた。私が9歳の頃から一緒にいるはずなのに、子犬の頃の犬との記憶があまりない。
一番幸せだったのは、やっぱり5歳から12歳くらいのことだろう。
ソファで丸まっているのを見ると、そのほやほやと温かいお腹に顔を埋めて、甘ったるいような少し獣くさいようなにおいを存分に嗅ぐのが好きだ。寒い冬、ソファに座っているとぴたっと体をくっつけてくることもある。彼は日向で昼寝をするのが好きなので、陽がよく入る私の部屋によく来る。私は彼に日が当たるように棚や荷物の位置を変えなくてはならなかったけど、それがまた楽しくて、嬉しい。
一緒にキャンプにも行った。ドッグランで自分の体の倍以上のトイプードルを巴投げにしたり、宙を飛んでいるボールに夢中になって走っていてフェンスに激突したりしていた。けっこうやんちゃだったけどコミュ障で、犬の友達は一人もいない。
この犬は、自分の餌はあまり食べないくせに人間の食べ物が大好きで、それに関してはほぼ害獣のような扱いになっていた。ローテーブルに乗っていたマシュマロが一袋消えて、下にいる犬のお腹が丸太のようにころんと丸くなっていたときには、心配を通り越して笑ってしまった。いただきもののシフォンケーキを玄関先に置いたままにしていたら、犬が紙袋を破り割いて1ホールを食べつくしていたこともある。お腹は例によってラグビーボールのようになっていた。ダイニングテーブルに乗って私のお弁当を食べていたこともある。「こら!!」と怒ると、何か一つくわえて逃げようとするのだから、あさましい。
いずれにせよ全然満足そうじゃなく、普通に申し訳なさそうだったり、苦しそうにしているのがまたおかしい。どこまでもひょうきんでおとぼけで、愛くるしい。
最近年老いてきて目も見えなくおそらく耳もなかなか聞こえなくなってきた。のろのろと家じゅうを徘徊するように歩き、自分のトイレの場所ももう守れない。意味もなく鼻を鳴らし、虚空を見つめておやつをねだったりする。お座りを命じてももう首をかしげるばかりで指示通りには動かない。大きな眼をきょろきょろして、暇さえあれば「くーん」と鳴くか、ひたすら眠っている。
その犬は、子犬の頃はよくボールを持ってきて「遊んで」とねだった。相手にしないときゃんきゃん吠えて、しまいには拗ねて寝てしまった。もうボールを認識することできないし、ボールをくわえることも彼はできない。投げたボールを持ってこなくなったのはもう一年前のことになるけど、それに気づいたとき私は犬を抱き上げて少し泣いた。やせていて、触ると骨の在り処が分かる体になっていた。
そんな老犬になって、ますますその犬がかわいくて愛おしいと思うようになった。特に好きなのは、水を飲んでいる姿だ。よたよたと思い出したように起き上がって、子犬の頃から使っている銀色のうつわからぴちぴちと水を飲む。踏ん張っている後ろ足がかわいい。小さい犬なので舌も小さく薄いから、殊更かわいい。
目が見えなくなったため、自分の現在地が分からなくなって立ち止まっている姿も愛らしい。鳴き声一つ上げず、「ここは~どこなのだろう~ん~」と寝そうな表情でじっと考え込んでいるところを見つけると、助けずに眺めてしまう。目こそ見えないものの、人がそばにいる気配は感じるらしくて、しばらくすると見えていないはずの真っ白い目と視線があう。昔は抱っこを嫌がってすぐに逃げたけど、最近は進んで抱っこされるようになった。
犬が元気なころは本当に対等な友達のようなつもりでいた。蝶よ花よと愛でいつくしむでもなく、とりわけ懐いてほしいわけでも服従させたいわけでもなかった。可愛くも憎らしい弟のように接していた。かまれてもへっちゃらだったし、ロープの引っ張りっこも容赦しなかった。眠っているところを邪魔するのはしょっちゅうだったし、おやつを持っていると見せかけて遊ぶこともした。犬にとってはうんざりだったに違いない。
そんな犬は私の中学時代と高校時代と大学・大学院生時代と社会人一年目の今、全てを知っている。人生で犬にしか話していないこともいくつかある。受験、卒論や修論、就職活動、大変な時はいつも犬を抱きしめていた。泣き言もいったし、思い切りお腹の匂いを吸って癒されたりしていた。犬にとってはうんざりだったに違いない。
寄り添ってくれていたとか、見守ってくれていたとか、そういうまなざしをこの小さな犬からは感じたことは一切ないが、私はこの全然なつかない犬がとても好きだ。
この犬は一生かけて私を完全な「犬派」に仕立て上げた。それはとても大きな仕事だ。それでも私は犬の魅力をすべてわかったわけではない。例えば、犬が突然話題に登場するとちょっと笑いを誘ってしまうのはなぜなのか、説明しきれない。なぜ老犬になった途端可愛さが増すのかも、コロコロ変わる表情の理由も。
犬はこれからも私の中で気になる存在であり続けるだろうな、と思う。
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