個人的な出来事と社会的な出来事の距離について(2022年上半期)

「あけましておめでとうございます」

コロナの影響がまだうっすらと残る2022年の始まりであった。10人以上の親戚が集まり宴会が催される新年会は規模が縮小され、「あけましておめでとう」を玄関先で告げるにとどまった。25歳になる年であるが、わたしはちゃっかり祖父からお年玉をもらった。ついでに、万年筆で手帳に「萌香、自立せよ」と書かれ(萌香は実名)、それはこの一年を通じてことあるごとに私の目に留まることになった。そして、「この万年筆はお前が持っていなさい」と、木箱に入ったパーカーの万年筆を譲り受けた。

15日から仕事始めであった。昨年から引き続いている案件を粛々とこなしながら、寒いその季節は去っていった。1月6日髪を切った日、東京に初雪が降った。

212日、高校の同級生に会い、年の瀬に別れた恋人についていろいろと語ったりした。213日までだったはずの蔓延防止措置は36日まで延長された。

221日、私の誕生日を一緒に過ごしてくれるといった人は仕事が終わらずに、私は一人で火鍋を作って食べた。私が個人的な失意にうずもれて、布団にくるまったその3日後、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まった。

2月から3月は、仕事のペースが合わない上司の下で働いており、ろくに食事をとれる感じでもなかった。そんなときに救いになったのは、ほとんどセブンイレブンのたまご蒸しパンだったといってもいいと思う。体重は2キロくらい増えた。あまりいい生活とは言えない。36日までだった蔓延防止措置は、326日まで延長された。ウクライナ侵攻のほうがよほどひどく、もうコロナなどはほとんどどうでもいいという気持ちになっていた。

324日妹が大学を卒業した。偶然私が今住んでいる最寄り駅で袴の着付けをしてもらうというので会いに行った。桜色の振袖はいかにも王道の女子大生といった格好で、かわいらしかった。妹は、4月から入社する会社の研修がすでに始まっているとのことで、私よりもちゃんとした社会人になるような気がした。

41日、新入社員が入社してきた。私には直属の後輩はつかなかったので安心した。正直1年目を過ごしただけでは、後輩に教えられることも少ない。一方で、私が昨年立案した企画が番組になることになったので、浮足立った。興味もないスポーツ番組のアシスタントにつくのだけは、もう死んでもいやだったので、これで秋まではいとわず仕事ができそうだと思った。

419日、ポストに1通の手紙が入っていた。山梨の刑務所からだ。昨年の年の瀬に文通ボランティアに応募していたことを思い出す。分厚い封筒を開けると、7枚の便箋にびっしりと書かれた文字が、どっと頭に、胸に流れ込んで、玄関で立ったまま2度、それを読んだ。その週末、新宿の但馬屋珈琲で返事を書いた。祖父から譲り受けた万年筆を木箱から出すとき、誇らしいような気恥ずかしいような気持が、ぎこちない挙動ににじみ出ていたと思う。

424日、2か月ぶりに笙の稽古へ行った。11月の公演に向けて、自分が単体で演奏する曲目があることを告げられ、驚く。昨年9月に引っ越した物件は楽器が禁止なのだが、さすがに何度か練習しないといけない気がしてきたが、まだしていない。

427日、母親からもらったトーホーシネマズの優待チケットで『カモン・カモン』を鑑賞する。その日は家賃の引き落とし日で、今月も滞りなく支払えたことの安堵感があった。その時にはすでに、その週末にまで迫っているGWの始まりを楽しみにしていた。

ゴールデンウィークは父親と釣りに出かけ、豪雨の中メジナや鯵を釣り上げた。父と母と大山に出かけた。小学生の夏休みを凝縮したような5日間で、私はすっかり満足した。そのGW中、ひょんなことから母親が勝手に契約したウォーターサーバーを私の部屋に引き取ることになった。

517日、マリウポリが陥落した。

5月19日、好きなアーティストのライブと急な仕事の予定がかぶり、泣く泣くライブをキャンセルをした。そのバンドは今後何度か対バンという形でライブを行うらしいが、この日のショックが大きすぎて、もう金輪際チケットをとろうなどと思わなくなってしまった。それくらい元気を失う出来事だった。

5月21日、同僚と美術館へ。仕事の関係でもらった展覧会の招待券を振りかざし、私たちは上野公園の美術館へ向かった。鑑賞後は、アメ横のタイ料理屋で瓶ビールを飲みながら、私たちの仕事について語り合った。彼女はウクライナ侵攻にひどく心を痛めていて、現地ジャーナリストへの取材を進めているほどだった。その帰り道、施設で暮らしている父方の祖母が入院したという知らせが入った。電話口で母から「おばあちゃん、もう長くはないかもしれない」と告げられた。帰ると、山梨の刑務所からまた手紙が届いていた。相変わらずの分厚さに笑みがこぼれる。今後このペースで3年間、彼が出所するまでやり取りが続いたら、うれしい。

 その翌週の私の仕事は次の番組の企画を探すことだった。ある新聞記事に「指宿昭一」を見つけて読み進めていた。昨年入管で死亡したウィシュマさんの弁護を務めている弁護士だった。何となくメモを取る。新聞を読むたびに、気にするべき世界の出来事が増えていく。

6月に入った。62日は犬の誕生日だ。写真を見返しているといつも泣いてしまうのだが、この日も例外ではなかった。一生続けることを許してくれるなら、今年で君は16歳だ!と、泣きながらツイートする。

部屋で小さなゴキブリを見ることが増え、鬱々としながら虫対策費用として6000円をつぎ込んだ。さらにひどいことに、住民税の支払いが始まることになり、1万円ほど上がったはずの給料から毎月差っ引かれることになった。住民税通知カードに書かれた田中良という、だれだかも見知らぬ人間に毎月7000円差っ引かれることにいら立ちを覚えた。そんな矢先に行われた杉並区長選挙だったが、私のドジによりすっぽかすことになった。区民として申し訳なかったが、当選したのが岸本さとこ氏と知り、嬉しい気持ちになった。投票しようと思っていた人だ。

68日、ウィシュマさんの妹たちが国に賠償請求をしたが、棄却された。そのあと、指宿弁護士が投稿している動画などを見ながら、入管管理問題についてしばらく考える日々が続いた。日本でもウクライナから避難してきた人を受け容れているという報道を見るが、今までだってほかの地域から日本に逃れてこようとした人はたくさんいるはずだ。彼らのことはさておき、といったところなんだろうかと、もやもやする。

618日、高尾山へ登りに行った。登山慣れした友人が頂上で火をおこしカップラーメンとチーズや卵の燻製を作ってくれた。梅雨真っただ中のはずであったが、山を登っている間は雨が降らなかった。高尾山の山頂の奥には別の山につながる道があったので、私たちはどんどん先へ進んだ。山を下りた瞬間に雨が降りだした。運がよかったねと笑いあい、一度帰宅してシャワーを浴びた後再び集まって一緒にしゃぶしゃぶを食べた。

 626日、母親の誕生日を祝うために実家へ帰った。プレゼントには、サンタマリアノヴェッラのポプリを選んだ。実家のつけっぱなしのテレビには、ウクライナの映像が流れていた。戦争がはじまったころは陰鬱とした曇天と雪で覆われていた木々や大地だったが、それらがすっかりなくなり、晴天の中に廃墟だけがあった。

その翌日、梅雨明けが発表されたと同時に、私はうっとおしかった襟足を切り、正統派ショートヘアとなった。やっぱりショートヘアが一番性に合っているきがした。

7月に入るといきなり京都へ飛び、撮影を終えるとお土産を買う間もなく帰宅した。日本に直撃かと思われた台風は消滅し、無事に帰ることができたが、撮れた映像は初日を除いてすべて曇天か雨模様となった。出張中に、再び祖母が入院したという知らせと、父親がコロナに感染したという連絡が母親からきた。そういえばコロナが再び流行しているというニュースを見た気もする。

77日、25年間生きてきて初めて晴天の七夕だった。指宿先生の事務所に挨拶へ行き、入管の話や技能実習制度に関して話を聞いた。その日の夜は、一つ前の駅で降りて散歩がてら歩いていたら、空が広く見える道や歩道橋を見つけたので、しばらく空を見ていた。夜には雲が出てしまって、星は見えなかった。

78日、安倍元首相が銃殺された。私は彼に会ったことはないが、大きな喪失感で集中力を失い、丸1日かけて出張費用の精算をすることしかできなかった。会社は騒然としていた。帰りの電車に乗って、乗客を見渡してみる。今ここにいる全員が同じニュースに胸を痛めているに違いなかった。だれも世間話をしたいわけではないが、共通の不安やもやもやが、ずしんと頭にのしかかっている表情をしていた。帰宅してもSNSから目を離せなかった。一人にしてほしい気持ちではあったが、本当に一人になってしまうのは怖かった。

 

一夜明けて、平静を取り戻しかけている。誰かからのいい知らせを待って、山梨の刑務所からの手紙を待って、生活に犬が戻ってくることを待って、おばあちゃんが退院するのを待って、ウクライナでの戦争が終わるのを待って、ウィシュマさんの事件に関して人道的に正しい判決が下されることを待って、願って、願って、願って。

東京の、狭くて壁が薄いアパートの1室で、ありふれた音楽を流しながら、自分と社会の釣り合いをとろうと険しい顔をしているありふれた25歳の女は、明日選挙に行く。