是枝裕和監督の最新作『箱の中の羊』を観た。
あまりにも好きな監督の作品なので、感想を忘れないうちにしたためておく。
血のつながりに拠らない家族の在り方を描き続けてきた是枝監督のテーマは今作も健在でありながら、今までの作品と異なったのは、その世界が「未来」であること。
是枝監督といえば、生活感のあふれた、どことなくなつかしさを感じさせる撮影セットが多い。
『誰も知らない』の狭いアパートの部屋、『歩いても、歩いても』の古民家、『怪物』に登場する校舎。韓国を舞台にした『ベイビーブローカー』でさえ、韓国的なつかしみをのぞき見たような心地がした。
ところが今作『箱の中の羊』では、多くの人が共通して持っていそうな、なつかしみ(散らかった部屋とか、くたくたの布とか、薄暗い玄関とか)はほとんどそぎ落とされ、代わりに、見たこともない間取りの家(実在するガチ物件らしいが)、ドローンによる郵便システム、そして故人のヒューマノイド…という、なじみのない社会が舞台となっている。
鑑賞者のエモに頼らない映像は、今までの見心地とは全然違って新しく、よかったと思う。
(監督は意図していなかったとは思うけど)
・・・是枝狂のようで恥ずかしいが、監督はドキュメンタリーの制作がもともとのご経験としてあり、広くとらえれば業界的には先輩にあたるので大きなリスペクトがある。
著書を読んだり、インタビューを見る限り、日常の何気なさを切り取る視点や、自然なやり取りを生むための制作手法が面白くて、ああ、そういう現場で働いてみたいな~と思ったこともある。憧れなのである。
働いたことあるよって人がいたらこっそり教えてください。
と、私の是枝リスペクトはさておいて。
ただ、未来にまで心地よさとか、てざわりを感じさせるセットや映像には、ああやっぱり、是枝さんの描く家族が好きだなと思わざるを得なかった。
そこでいい雰囲気をつくり出していたのが、甲本健介役・大悟(千鳥)だったのかなあと思う。
一人称はワシのまま、あの特徴のある訛りとつっけんどんなしゃべりの中に、不器用な父親らしさがにじんでいる。
いくつもの冠番組を持っている彼に、台本を覚える時間あるのかななんて心配こそしたが、発する言葉も短く、どちらかというと自然な身振りや表情のほうが目を引いた。
健介は、ヒューマノイドを受け入れることに最初から否定的であるが、いざ亡き息子そっくりのヒューマノイドを前にすると、かつての父親の顔が現れてしまう。
虚構と分かっていても心が動いてしまう、その感情の揺れを、こんなにも繊細に表現されるとは。
妻音々(綾瀬はるか)とのやり取りは微笑ましく、ヒューマノイドの翔(桒木里夢)とのやや距離のある会話もリアルだ。
ヒューマノイドという題材は、未来っぽくなりすぎて鑑賞者をおいてけぼりにするほど、
ときに無機質になってしまうこともあるが、そうはさせないのが是枝マジック。
気持ちの想像を導くせりふ回しと、演者の表情や余白の部分でついていける。
「新しいものと、懐かしいもの。全く異なるものを融合させる…だから楽しいんだな、映画監督って」ってところだろうか。独特の世界観を作り出す、すばらしいキャスティングだったように思う。
音々が建築家、健介が工務店の社長という設定も相まって、作中では建築をめぐる会話が頻発する。
彼らが暮らす変わった間取りの部屋にも、ずっと心地良さが漂っている。中庭を囲うように部屋が配置され、窓は大きく、玄関や中庭には植物が茂って、風通しもよさそうだった。
ヒューマノイドは、人間の親が教えられるものの範囲をはるかに超えて学んでゆくが、
一緒に暮らす人間の影響を少なからず受ける。
ヒューマノイド翔も、健介や音々の仕事見て、自分が暮らす家を構想するようになる。中盤、音々とヒューマノイド翔が、同じように模型を作る表情が交互に映される印象深いシーンがあるのだが、二人の真剣な表情がとっても素敵で良かった。
母親に甘えたり、相談したり、その姿を見習ったり。そんな関係性は、たとえヒューマノイドといえども母子と変わらないように見えた。血以外に家族をつなぐものがあるとしたら、それは言葉だったり、日々の身振りだったり、哲学だったり・・・なのかもしれないなと思う。
血がつながっていないのに、これを親子と呼ばず何と呼ぶの?と、是枝作品は毎回どこかで思わせてくれるが、今回それをいちばん強く感じた場面だった。
さて。タイトルの『箱の中の羊』は、『星の王子様』に登場する羊のことを指している。
王子さまに羊の絵を描いてと頼まれた主人公は、描くたびに難癖をつけられるものだから、
とうとう、てきとうな箱の絵をかいて「その中に羊がいる」と言って、王子さまを突き放そうとするくだりがある。
どんな羊なのか、それは受け取った相手の想像の中にいる、という、ある種の頓智のような寓話だ。
監督をはじめ、制作陣がタイトルに込めた思いは計り知れないところがあるが、箱の中身(未知)を想像すること、というのは言わずもがなであるとして、箱の内側と外側、という視点に強く心を惹かれた。
夫婦は途中から、ヒューマノイド翔を、亡き息子の代わりではなく、
ヒューマノイドとしての特性を受け入れたうえで、全く別の子どもとして受け入れようと合意する。
(この合意形成の過程もいいんだよな~。言わなくてもわかることがあるよね夫婦って…みたいな、そういう空気感が漂っていて…セリフで作り上げない感がリアル夫婦感…)
「人工知能をどう受け入れるか」という価値観の違いはここで一旦解決され、
映画はここで終わってもいいように感じられるが、これが一般的な目線、つまり箱の外側に居る者の目線だ。
私たちは人工知能について話すとき、それを外側から観察する立場に自分を置きがちだが、人工知能の側から見れば、私たち人間のほうが理解しがたい存在で、想像や観察の対象なのだ。
ヒューマノイド翔の言動を見ていると、ふとそんなことを考えてしまい、「箱の中にいたのは私だったんだ」という音々の言葉に、はああ…と、いとも簡単に胸を打たれた。いいシーンだった。
(いとも簡単に、というのは、その言葉がなんの抵抗もなくスッと入ってきたという意味。)
こんなふうに、足元からずるりと世界観を塗り替えられてしまうような…古い言葉ではコペルニクス的転回というけれども、そういうのが感じられて観てよかったなあ、と。
思ったことなかったことを思わせてくれる映画っていいなと思うんだよなあ。
それも、日常のすぐそばの、ああ気づかなかったなあというところに転がっていることを。
相容れるのかいれないのか、とか。すんなり受け入れられるところと、そうでないところと。
そして、こんな世界もあるかもしれないなという想像と。
なんとも「新触感グミ」みたいな不思議な観心地(みごこち)がずっと続いた。
これら以外にも語るべきポイントはいっぱいある映画で、
虐待の話も建築の話も、亡くなった命との向き合い方とかの話も。。。
観る人によって刺さる部分は様々だな~と思いました。
そんでこっからは半分妄想で、ややメタっぽい視点で考えたこと。
なんか…キーワードになりそうなセリフの多さとか、是枝監督にしては「言わせた感」のあるセリフが多かったのが気になっている。これは前作『怪物』をともに作り上げた作家坂元裕二の影響を感じた。坂元裕二の脚本ときたら、そっくりそのまま名言集になりそうなほど、パンチラインだらけですからね…
それから、自立を目指すヒューマノイド翔を見て、音々がぽつりとつぶやく「捨てられたんだよね、わたしたち」という言葉は、坂本作品の中でも名作「mother」で主人公奈緒が被虐待児の怜南にかける言葉「あなたは捨てられたんじゃない。あなたが親を捨てるの」という言葉を思い出させたりとかもして。
音楽は、坂本作品『大豆田とわ子と3人の元夫』の坂東祐大さんですし(めっちゃよかった)。
本当に意識してるとかどうかはどうでもいいとして、今も仲良くしてるんかな~。
前作に登場した柊木陽太さんも元気な(?)姿を見せてくれました。
見返したくなる映画やドラマがいっぱいできた。
楽しかったです。