大好きの代わりに

 

前を向いていたい私たち

素直になろうよ すてきな絵を飾って

日々日々、あなたが隣にいてくれたら

どんなに幸せでしょう

昨日もふたりで笑ったし今日も笑うし

きっと明日も笑うでしょう


大きな秘密をかかえて

2人で迎える世界は

甘くすこしぼやけて

はじまりの気配とあたたかな体温

そのやさしい眼差しの中に

少しでも長く居させてください


大好きの代わりに

あなたに穏やかな夜が訪れるよう祈ります

暗闇でも怖くないよう迷わないよう

わたしは遠くの岬で光を照らす灯台になる


大好きの代わりに

あなたにやさしい朝が訪れるよう祈ります

わたしはひとり先に明日に足を伸ばし

あなたの夢に朝日を連れてくる


怖がりで臆病な私たち

あまりに世界が大きくて手に負えず

泣いてしまう日もあって

夜々夜々、あなたがそばにいたら

どんなに心強いだろう

変わらないあなたの想いを信じるし

変わるあなたのすべてを愛したいのです


あまり勇気はないほうだから

できれば2人で分け合おうよ

あんなに諦めていた未来が色づくのを見た 

差し出したい自分と見せたくない過去

そのやさしい眼差しの中で

冷たい心の底に陽が差さしたの


大好きの代わりに

あなたの部屋中に花を飾ります

それは思い出であり写真であり

たくさんのキスであり

あたたかい料理であり


大好きの代わりに

ひとつでも多くの約束を交わします

次の週末には模様替えをしよう

小さなカメラを持って旅行にいこう

そしてなによりも

また明日笑っておはようと言おう

 

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言葉は、どんな言葉だって劇薬だ。わたしたちはそれを使って他者に自由に思いを伝えることができる一方で、時にわたしを縛り、その言葉以外のことを考えさせてくれない。

あなたに気持ちを伝える言葉なら、素直に「大好き」と「愛している」がよく似合う。そんなことはとっくにわかっている。しかし、その二つの言葉に甘えていたらいつか言葉は、その殻だけを残して消えてしまう。

「大好き」と「愛してる」に頼らずに気持ちを表現したい。それは、挨拶を交わすこと、触れること、抱きしめること、見つめること、記憶すること、日記やブログに記録すること、写真を撮ること、離れていても思い浮かべること、幸せであるよう願うこと、これから先の人生が豊かであるよう祈ること。生活のほとんど全てだ。

 

 

 

テレビドキュメンタリーを撮る仕事のこと

 よく晴れた日の秋晴れは、犬が死んだ日のことを思い出す。朝、多分最も美しい朝の時間に彼は旅立った。その日は雲ひとつない晴天で、きっと迷うことなく天国に行けるだろうと思えるような日だった。わたしも、死ぬ日を選べるならあんな日がいい。君は本当に、いい日を選んだ。11月1日、ワンがゾロ目で3つ並ぶ日。

わたしが9歳の頃から、彼はわたしの毎日の中にいた。彼はわたしの進学を全て見届け、就職した年にこの世を去った。亡くなる半月前、もう見えていないはずの真っ白い目でじっとわたしを見つめてきた時間のことを、今でも忘れられないでいる。その頃はまだ散歩ができて、彼がもうじき死んでしまうところにいるなんて、わたしにはわからなかった。亡くなって思い返して、やっとその時間が尊かったことを知る。何度思い出しても泣いてしまう。

・・・いや、そんなことじゃない。今日考えるべきはそんなことじゃないのだ。いやどうも、この季節に深く考え込もうとするとまず真っ先に秋晴れと大切な犬の死が重なって、明るいのか暗いのかよくわからない気分になる。落ちる葉もあれば実る果実もある、秋の性質のせいだろう。

 

実ったもののことを考えてみると、意外に少ない。少ないけれど、どれもお気に入りばかりという手触りがする。ここ最近やっと形になってきたのは、仕事の仕方だろうと思う。

 都内の小さな番組制作会社に勤めている。このブログでそんなことを書くのは初めてかもしれない。学生の頃は、勉強していることと自分が普段考えていることが全然違ったので、このブログには論文にはできないことを書いていたけれど、社会人になったら、仕事中に考えていることと普段考えていることに重なる部分が生まれてきた。それがいいとか悪いとかは別にして、そんな日々を気に入っている。

 わたしが勤めている番組制作会社では、主にドキュメンタリー番組を作っている。世間一般で「ドキュメンタリー」といえば・・・、思い浮かべる番組はなんだろう。ひとに紹介するときは、だいたい「ガイアの夜明け」とか「情熱大陸」とかいうとわかってもらえる(が、厳密にはあんなのはドキュメンタリーではないよなと思う)。最近人気なのは「ザ・ノンフィクション」か。でも骨太のものと言ったら、やっぱりNHKスペシャルETV特集になるかなと思う。NHKの報道は批判も多いが、ドキュメンタリーは好きという人が多い。予算も取材期間もたっぷりもらえるのでわたしもNHKの仕事は好きだ。

星の数ほどある映像プロダクションの中で、弊社ほど愚直にドキュメンタリーをやっている会社は意外にも少ない。ドラマやバラエティを作る機会は少ないので、頻繁に芸能人に会えるわけでもないし、グルメ番組に出てくるようなとても美味しい料理も残念ながら期待できない。地味だ。果てしなく地味だ。だから正直な話、やりたがる人は少ないよな思う。

 

具体的にどんな仕事をしているかというと、入社してから最初の2年間は、いわゆるAD(アシスタントディレクター)の業務をこなしていた。

言い慣れないビジネス用語を使って、取材交渉の電話やメールを送ったり、撮影候補地となりそうな場所をネットで探し回ったりなど、いわゆる「仕込み」の業務が多い。

撮影が済むと、映像素材を整理して、編集期間に入る。その間には、足りない映像を取り寄せたり、ナレーションで語るべき情報の裏どりに奔走する。同時に、番組の原稿を書く。これが驚きで、番組の中で何分にどんな映像か、誰がどんな発言をするかを全て書き込まなくてはならない。ナレーションはもちろんのこと、インタビューの発言もカメラワークも全てである。「03:57  〇〇選手インタビュー ZI(ズームイン) 今回の試合は〇〇が××で・・・云々 」とか、そんな具合だ。ドラマだったら先に台本が出来上がるところが、ドキュメンタリーではその順序が逆。そんな小さな事さえ、入社したてのわたしには驚きだった。

 何気なく聞き流している人も多いだろうが、ドキュメンタリーのナレーションはディレクターが命をかけて書いていると言ってもいいだろう、少なくともわたしはそうだった。語感、分かりやすさ、情感、映像や登場人物の言葉を邪魔しないくらいの匙加減。トランプタワーが絶妙なバランスで立つのと同じくらいの繊細さで、それは成立している。語彙力と言ってしまえばそれまでだが、たとえば、「思い出」か「記憶」かで悩む、「生きる力に」か「生きる力へ」かで悩むとか、そういった具合だ。ナレーション一言決めるのに、10秒の映像を30回くらい見る。本当に、大袈裟じゃなく。だから、1.5倍速とかでみられたら、たまったもんじゃない!

 

極端な話、ドキュメンタリーは台本もリハーサルもないまま撮影をするので、どれくらい何が撮影できるかわからない。天候の都合で撮影できないこともしばしば、海外のスポーツ選手を撮ろうとしたらすでに引退しているとか、現地についてみたら下調べしていたことと全然違う現象が起きていることもある。人の世はまさに、生ものだなと痛感する。

撮れだかが心配だからといってずっとカメラを回し続けるのは、機材のバッテリーやSDカードの容量を食うとかで推奨されない。編集のときに長すぎる素材をラッシュ(撮影した素材を見返すこと)するのも相当骨が折れるので、優秀なディレクターはそんなことをほとんどしない。

ADのうちは、そういったことをディレクターの手伝いをしながら学ぶ期間だ。ADといえば、雑用ばかりさせられ、そのせいで「こき使われる」というブラックなイメージがあるようだが、そんなふうにこき使われながら取材の勘や肌感覚を学んでいくのだ。社内では、「早くディレクターになれ」という人と「下積みをしっかりしないとディレクターにはなれない」という人とで綺麗に意見が分かれているが、わたしは後者の意見に賛同だ。下積みにもちゃんと理由があるもんだ、いや上手くできてるなと思う。

わたしは昨年、自分が取材したいと思うネタでNHKで1本50分くらいの番組を作った。もちろんその頃のわたしは絶賛見習いAD期間だったので、社内でも優秀な先輩ディレクターの全面的なフォローを得て、1年かけてやっと完成させた。

人の命が関わる医療現場の一端を見せてもらう撮影だったので、取材から編集までずっと気を張っていた。その間、取材させてもらったある人は亡くなったり、ある人は転院したり、いろいろなことが起こった。普段の生活の中に取材という異分子が紛れ込むことを許してくれる取材対象者の方には本当に頭が下がる。

その番組の取材中、普段寡黙な先輩ディレクターがとても真剣にわたしに言った。「俺たちの仕事は、人の人生で飯食ってるようなものなんだよね」と。ドキュメンタリーは得てして人生の大切な瞬間にカメラを向ける。喜びの瞬間、憧れや期待、離別の悲しみのどん底、葛藤、先が見えない不安、もどかしさやときには諦め。

 人を撮り続けている限り、そこには何らかの表情があり心の動きがある。彼/彼女の生活の中の、意味のある一瞬。ドキュメンタリーを作るということは、それを  “誠実に“  解釈しようとする絶え間ない努力の繰り返しだ。

もちろん、いつも正しく解釈できるとは限らない。「こうだろう」とこちらが期待していても、当の本人が全然意に介していないことはよくある。逆に、こちらの何気ない一言が、相手を深く傷つけたり、怒らせたりすることもある。カメラに映る現象の全ては、私たち取材班と取材対象者の相互作用の結果だ。そういう意味で、ドキュメンタリーが「客観的」でいるなどありえない。

そう、誤解されがちだがドキュメンタリーが描くのは真実ではなく主張だ。何を撮るか、誰に何を問うか、ことごとくディレクターの主観的が反映されている。何かを明らかにしようと取材対象者に尋ねるとき、わたしたち取材班もまた問われている。結果として映像に表現されるのは、中立でも、たった一つの真実でもない。(ただし独りよがりでももちろんない。)

緊密な相手との関係や、取材相手と長く時間を過ごしたことで生まれた主観が織り交ざったドキュメンタリーは、味わい深いとわたしは思う。「ドキュメンタリーとは格闘技である」と言い表した原一男の言葉はちょっと過激だけれど、確かに殴り合いに似た緊張感がある。直接パンチをくらってどこかを痛めた取材陣が作るドキュメンタリーは、すごみがある。覚悟みたいなものさえ感じる。

ディレクターの主観の持ち方、というのは、この仕事を志す人にとって一生の課題だろうと思う。偏見があってはいけないし、無知はもってのほか、見て見ぬふりは論外、できるだけ多くのことに気づいていなくてはならない。気づいたことの一つずつを検証しなくてはならない。自分の細かい感情の動きにすら、敏感でなくてはならない。そして視聴者に気づかれないくらい透明でさりげなく居なくてはならない。

 

 携わった作品の数はわたしなんかまだまだ少なくて、その中で果たした仕事もまだまだ小さなものだ。だから、入社してからの3年間の実りというのは少ない。だけれど、その一つ一つの味がめちゃくちゃに濃い。そんな仕事ができることに今は充実を感じる。正直、あともう少し給与が上がったらいいなと思うところだけど、それは自分が十分実力をつければ自ずと後からついてくるんじゃないかと思うしかない。

来年もめげずにこの仕事ができますように。

いつまでも幸せに暮らしたかったひとだらけだから世界は続いてきたのだ

地上にあるもの全てを焼き尽くそうとする日差しの中をなんとかかいくぐって生きている。人間はみな日傘の下で死んだ顔をしていて、草木ばかりが青青と太陽のことを信じている。いいなわたしもそんなふうに、あの灼熱の塊を恨まず生きていきたいな。そうは願っても、どうしてわたしの体に染み込んで、生きる気力を奪って行くのか。涼しくなった夜にばかり頭が働くので、眠れない。体操も瞑想もしているけど眠れない。動けなかった日中の何かを取り返したいと思っているけど、明日こそちゃんと生きようと思って眠ろうとしている。不甲斐ない。わたしはそんな夜ばかり越している。

 

爽やかの文字ごと食べたい灼熱の地球の上で君は泉だ

 

こぼさないようにここまで運んできたの 目の縁の海のすべてを

 

誰にも言えない恋をした女の子は、きれいだろうか。

夕暮れの帰り道、まだ夜にもなりきらない夏の薄闇はあまりに綺麗だから、そんなことばかり考える。夏の始まりと終わりには、失った人や思い出が、感情の地層からぬいっと顔を出してこちらを見るようなことがあって、わたしは怖い。

誰にも言えない恋だったから、覚えているのは私だけだ。相手はきっと覚えていないほどささやかで、伝えるなんて大袈裟でしかなかった恋。世界には、そうして消えていった愛おしい思い出や感情の機微が一体どれほどあるだろう。おとぎ話にも少女漫画にもならずにこっそりと葬られた恋。そんな恋を葬るときの、彼女たちの手つきってどれくらい繊細だろう、あるいは破滅的だろう。

わたしのブログに書いてあることを眺めて、まるでここは恋の墓場だなと思った。いろんな人との思い出を脚色したりしなかったりで書いてきたけど、どれも全然違う人のことを書いている。1人ずつちゃんと思い出があって、別れたりしちゃったけどくれたもののことを忘れたくなくて、消したりできない。今はもうそばにいなくても、なかったことにはならないのだと思う。こうして思い出は肥大化していく。

 

一輪の花のおかげでまた明日も 君もわたしも だめにならない

 

昨年から鉢植えで育てていたガジュマルがついに枯れて、わたしと母は大いに心を痛めている。葉が黄色くなって日々はらはらと落ちていく様子は、わたしも母も疲れさせて、寂しくさせた。ガジュマルに特有のユニークな形の幹に触れてみると、外側の乾いた樹皮だけが硬くて、中身は空っぽになっていた。中身の見えないものは苦手だ。人の気持ちは推し量ることができても、植物とか魚とか動物の、体の状態を観察するのが、わたしは多分とても下手だ。

もうこうなってしまうと枯れるしかない、という植物の終わりを眺めるのは心苦しい、恋が終わるのとおんなじくらい、心が痛む。わたしと母は、サボテンさえ枯らしてしまうくらい、植物を育てる才能がない。うちに来た植物たちには申し訳ないなと思っている。もう残された選択肢は切り花しかないわけだが、最近あまり花には惹かれなくて、やっぱり緑がいいなあ、と思っている。わがままだ。連れてこられる植物の気持ちになってみなさい。

 

わかりたくなかったわたしが大人であること 星があるのを忘れてたこと

明日にはきっと良くなってますように 風邪と景気ときみの機嫌と

 

最近になってようやく、買ったものを片端からきちんと使う、ということをしている。なんだか、感覚が古いのか、買って満足してしまうこと、というのがよくある。展覧会の限定デザインのノートとか、持っていると素敵だなと思うバッグとか、万年筆とか、そういった減らないものの類でも、なぜか手に取らないで置いておくだけのことが多かった。とても反省している。

その中の一つに、Kindle電子書籍リーダーがあって、最近はそれを使ってヨガの教典(もちろん現代語訳解説付き)を読んでいる。近所のフィットネスクラブで開講している講座にたまに行っているけど、先生が発する専門用語がわからなさすぎて、教典を読むしかなかった。ポーズの取り方とか、なぜそのポーズをするかとか、分かって嬉しいこともあれば、身体の浄化に関する章には、目を疑うような記載がたくさんある。胃の浄化と称して平気で吐かせるし、直腸を取り出して洗い、戻す。などという想像をはるかに超えたことまで書いてある。気分が悪くなって読むのをやめかけたけど、役にたつことも多いので、成り行きのまま目を通すことにした。ヨガでは、淡々と、感情の動きを一歩離れたところから見る訓練をする。教典の文言にいちいちびっくりしている暇はないのだ。

運よく、信頼できる素敵なインストラクターの人に出会えたので続いているが飽き性だし、しんどいことはすぐ諦めてしまうので、いつまで続くかわからない。続けるのが何よりの才能だと思う。何かを続けている人には、本当に頭が上がらないなと思う。例えそれがどんなに小さなルーティンであっても。

 

大きな仕事が終わって、短くて小さな仕事をいくつかこなす日々が続いている。全力疾走するには夏は暑すぎるけど、同じ会社内には、甲子園球児並みに熱い仕事をしてる人々もいて、ちょっと羨ましい。変わり映えしなくても、日は暮れていくし朝は来てしまうし、今はわたしはそれが少し怖い。置いていかれないよう、しがみつくのが必死だ。煙たいその不安は、眠気のような匂いがしている。

 

 

君に会うために光ってもう二度と光れないから離さないでね

 

 

 

 

 

ある日の歌舞伎町とそこから始まった出来事のこと。

「次は新宿、新宿」

丸の内線でこの駅の名前が告げられると、そわそわとつま先が所在なさげに動く。ドアが閉まる直前まで、降りるかどうかを迷い、一息ついて、人混みに巻き込まれたせいにして降りてしまう。年が明けてから週に2,3回、こんなことを繰り返した。

 新宿は学生の頃も何度となく通った町だ。神奈川県の実家から山手線沿線の大学に通っていた私にとって、そこは東京の玄関のような駅だ。

小田急線に乗ればいつでも温かい実家に帰れることを甘くほのめかす西口の通用口、そうだ、あそこがリニューアルされたころ、私は大学を卒業したんだっけか。学生の頃バイトをしていたレストランは、ビルの改装工事の都合でとっくに店舗を移っていた。

 丸の内線の織場から新宿三丁目のほうへ向かう地下通路のちょうど真ん中あたりに「サブナード」と書かれた明るい青の看板がある。そこを通ると、歌舞伎町まで最短距離だ。

 

ベンチコートを着てホワイトボードを持った女の子。飲み放題1時間3000円か、そこそこだね。3人くらいの黒人グループのうちの一人に目を付けられて手を振られる。「お姉さんかわいいね、オリエンタルな感じがする」「ありがとう」。そびえたつゴジラを古いデジカメに収めようとのけぞってシャッターを切るおじさん、この人どこから来たのだろう。犬カフェの入り口には、店員に抱かれて退屈そうにだれているポメラニアン。かわいいけど、ここの犬っておやつしか見ていないから少し残念なんだよね。ペットロスの私の心を束の間癒してくれたヨークシャーテリアのふたばちゃんは、元気にしているだろうか。

頭上からしきりに降ってくる客引き禁止の啓発アナウンスが荒っぽい関西弁で、この夜の街をふらつく放蕩者を𠮟りつけている。風俗も飲み屋も一緒くたになったカラフルな看板を見上げていると、その彩に心のどこかは奮い立ち、また自分の存在がずぶずぶとこの町に埋まっていくことに安心感を覚える。猥雑さも純粋さもその区別がつかないまますべてが路上に投げ出されてそこに在る、ただ在る歌舞伎町が、好きだったりする。

 

ある日の歌舞伎町とそこから始まった出来事のこと。

「駅からトーホーシネマズまでのあの道を、だれからも声をかけられないで歩けたらその日はいい日だなって思うんだよね」

待ち合わせに遅れてきた私を笑顔で迎え、彼はのんきに言う。

「私はここに来る間に3人に声かけられたので完敗ですね」

「いいじゃん、声かけたくなるような女の子だったんでしょう。まあたしかに今日の君はかわいい!」

「セクハラですよ」

「嫌ではないはずだ」

嫌ではないというか、時代錯誤なあなたのことを少し諦めているところがあるんです、まあ年齢も20近く違いますしね。とは言わないで、しばらく私たちは町の喧騒に身を沈めるように散歩する。路地裏を抜けて大通りに出た瞬間の街灯のきらめきに「きれい」と目を細めたその人は、嘘がなく美しかったので、好きだと思った。

その人と私はある飲み屋で出会った。目が合って「おや、妖精みたいな子がいる」と、最近の人間にしてはやけに芝居じみたセリフを第一声に放ち、ゆうゆうとハイボールを飲み干した。全身真っ黒い服に、シルバーのネックレス。指輪は3つ、つけていた。耳が隠れるくらいの長さの髪は私好みで、店内の明かりが透けるとほのかに人工的な赤色が目立った。

怪しいと思いつつ、話をよく聞くと、わたしと同じような仕事をしている人だった。わたしはドキュメンタリーの制作だが、彼はドラマの制作だということが分かった。それから何度か一緒に出掛ける仲になった。

彼とは大半が居酒屋かゴールデン街だったが、たまにいかがわしい店へも連れていかれた。トーホーシネマズの横の広場の人々を観察してたこともある。「こんな時のためにサングラスが欲しい。視線がばれないからずっと人間を見ていられるんだよ」。なんだよ、その理由。その夏に買ったサングラスをかけるたびに、その人のその言葉を思い出す。こうなってくるともう呪いだ。

 「アンダーグラウンドのこと知らないでドキュメンタリーなんか撮れないよ、そんなの全然、作品として惹かれない。いやだよそんな表面的なところだけ見せて、ああ泣けるねなんて、そんなのドキュメンタリー見たくない。君はアングラに身を置いていていい人間だ。同時に、そこに染まりきらない賢さも持ち合わせているだろ」

まだ数回しかあったことないのに、わたしのことを昔から知っているみたいな口ぶりで言うその人のことを、好きになってしまうのは多分簡単だった。決心一つでえいやっと、バンジージャンプのように落ちていく。すごく怖いけど、多分死なない。いや、懇願したって殺してくれない。

 当時付き合っていた人と別れたときも、おばあちゃんが死んだときも、犬が死んだときも、彼に話した。彼は、失うことに慣れている人だった。「人生なんて終わってみないとわからない」と彼はいう。おばあちゃんが死んだと連絡したときも、お構いなしに飲みに誘ってきた。「現世は生きている人のためのものだよ。その人が生きていた世の中を肯定することが残された者どもの使命だろ。来週の金曜、あけておいて」。

 失うことに慣れすぎていて、その言葉や振る舞いにはいつも喪失感がまとわりついていた。人生のどこかの時点で、手に入れることをあきらめたかのような無気力さもあった。真剣に交際する気は毛頭なく、とっかえひっかえ女性の気配がして、わたしもそのうちの一人にすぎないのだと理解した。よくよく理解した。受け入れてしまえば不思議と悲しくはなくて、むしろ気楽だった。そしていつしか私もその、無気力感を叩き込まれたらしい、だれのことも欲しいと思わなくなり、期待しなくなった。目の前のその人のことも。

 

「最近恋人出来たの?」

3か月振りにあった日に、軽いジャブを打ってみた。

「君に恋人ができるまではできないよ」

ぬるりとかわされ、わたしは不服だった。なぜそんな、こちらを脱力させるようなことしか言えないんだ。

ほどよくぬるい湯船からなかなか上がれないのと同じように、私たちの間柄はなかなか断つこともできなければ終わりも見えなかった。いまさらそんな緊張感をここに持ち込んだところでどうにもならないのは目に見えているのだけど、問いかける私はいつも絶壁に立たされているような気持ちで、あとはあなたの一押しさえすれば、いつだって飛び降りれるようにしているだけのことだった。だけど、あなたは殺してくれないんでしょう。

 

「次は新宿、新宿」

 わたしたちはいつも、新宿の街角の風景の一つだったのだと思う。投げ捨てられた空き缶同様、そこに意味も理由もなく、ただ「在る」というだけ。女一人の心の中で煩悶しても、日本一の繁華街は無数の夜の中にそれを押し流していく。私はあの街であなたとそう在って、初めて“無意味”ということを知ったのだった。

 

個人的な出来事と社会的な出来事の距離について(2022年上半期)

「あけましておめでとうございます」

コロナの影響がまだうっすらと残る2022年の始まりであった。10人以上の親戚が集まり宴会が催される新年会は規模が縮小され、「あけましておめでとう」を玄関先で告げるにとどまった。25歳になる年であるが、わたしはちゃっかり祖父からお年玉をもらった。ついでに、万年筆で手帳に「萌香、自立せよ」と書かれ(萌香は実名)、それはこの一年を通じてことあるごとに私の目に留まることになった。そして、「この万年筆はお前が持っていなさい」と、木箱に入ったパーカーの万年筆を譲り受けた。

15日から仕事始めであった。昨年から引き続いている案件を粛々とこなしながら、寒いその季節は去っていった。1月6日髪を切った日、東京に初雪が降った。

212日、高校の同級生に会い、年の瀬に別れた恋人についていろいろと語ったりした。213日までだったはずの蔓延防止措置は36日まで延長された。

221日、私の誕生日を一緒に過ごしてくれるといった人は仕事が終わらずに、私は一人で火鍋を作って食べた。私が個人的な失意にうずもれて、布団にくるまったその3日後、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まった。

2月から3月は、仕事のペースが合わない上司の下で働いており、ろくに食事をとれる感じでもなかった。そんなときに救いになったのは、ほとんどセブンイレブンのたまご蒸しパンだったといってもいいと思う。体重は2キロくらい増えた。あまりいい生活とは言えない。36日までだった蔓延防止措置は、326日まで延長された。ウクライナ侵攻のほうがよほどひどく、もうコロナなどはほとんどどうでもいいという気持ちになっていた。

324日妹が大学を卒業した。偶然私が今住んでいる最寄り駅で袴の着付けをしてもらうというので会いに行った。桜色の振袖はいかにも王道の女子大生といった格好で、かわいらしかった。妹は、4月から入社する会社の研修がすでに始まっているとのことで、私よりもちゃんとした社会人になるような気がした。

41日、新入社員が入社してきた。私には直属の後輩はつかなかったので安心した。正直1年目を過ごしただけでは、後輩に教えられることも少ない。一方で、私が昨年立案した企画が番組になることになったので、浮足立った。興味もないスポーツ番組のアシスタントにつくのだけは、もう死んでもいやだったので、これで秋まではいとわず仕事ができそうだと思った。

419日、ポストに1通の手紙が入っていた。山梨の刑務所からだ。昨年の年の瀬に文通ボランティアに応募していたことを思い出す。分厚い封筒を開けると、7枚の便箋にびっしりと書かれた文字が、どっと頭に、胸に流れ込んで、玄関で立ったまま2度、それを読んだ。その週末、新宿の但馬屋珈琲で返事を書いた。祖父から譲り受けた万年筆を木箱から出すとき、誇らしいような気恥ずかしいような気持が、ぎこちない挙動ににじみ出ていたと思う。

424日、2か月ぶりに笙の稽古へ行った。11月の公演に向けて、自分が単体で演奏する曲目があることを告げられ、驚く。昨年9月に引っ越した物件は楽器が禁止なのだが、さすがに何度か練習しないといけない気がしてきたが、まだしていない。

427日、母親からもらったトーホーシネマズの優待チケットで『カモン・カモン』を鑑賞する。その日は家賃の引き落とし日で、今月も滞りなく支払えたことの安堵感があった。その時にはすでに、その週末にまで迫っているGWの始まりを楽しみにしていた。

ゴールデンウィークは父親と釣りに出かけ、豪雨の中メジナや鯵を釣り上げた。父と母と大山に出かけた。小学生の夏休みを凝縮したような5日間で、私はすっかり満足した。そのGW中、ひょんなことから母親が勝手に契約したウォーターサーバーを私の部屋に引き取ることになった。

517日、マリウポリが陥落した。

5月19日、好きなアーティストのライブと急な仕事の予定がかぶり、泣く泣くライブをキャンセルをした。そのバンドは今後何度か対バンという形でライブを行うらしいが、この日のショックが大きすぎて、もう金輪際チケットをとろうなどと思わなくなってしまった。それくらい元気を失う出来事だった。

5月21日、同僚と美術館へ。仕事の関係でもらった展覧会の招待券を振りかざし、私たちは上野公園の美術館へ向かった。鑑賞後は、アメ横のタイ料理屋で瓶ビールを飲みながら、私たちの仕事について語り合った。彼女はウクライナ侵攻にひどく心を痛めていて、現地ジャーナリストへの取材を進めているほどだった。その帰り道、施設で暮らしている父方の祖母が入院したという知らせが入った。電話口で母から「おばあちゃん、もう長くはないかもしれない」と告げられた。帰ると、山梨の刑務所からまた手紙が届いていた。相変わらずの分厚さに笑みがこぼれる。今後このペースで3年間、彼が出所するまでやり取りが続いたら、うれしい。

 その翌週の私の仕事は次の番組の企画を探すことだった。ある新聞記事に「指宿昭一」を見つけて読み進めていた。昨年入管で死亡したウィシュマさんの弁護を務めている弁護士だった。何となくメモを取る。新聞を読むたびに、気にするべき世界の出来事が増えていく。

6月に入った。62日は犬の誕生日だ。写真を見返しているといつも泣いてしまうのだが、この日も例外ではなかった。一生続けることを許してくれるなら、今年で君は16歳だ!と、泣きながらツイートする。

部屋で小さなゴキブリを見ることが増え、鬱々としながら虫対策費用として6000円をつぎ込んだ。さらにひどいことに、住民税の支払いが始まることになり、1万円ほど上がったはずの給料から毎月差っ引かれることになった。住民税通知カードに書かれた田中良という、だれだかも見知らぬ人間に毎月7000円差っ引かれることにいら立ちを覚えた。そんな矢先に行われた杉並区長選挙だったが、私のドジによりすっぽかすことになった。区民として申し訳なかったが、当選したのが岸本さとこ氏と知り、嬉しい気持ちになった。投票しようと思っていた人だ。

68日、ウィシュマさんの妹たちが国に賠償請求をしたが、棄却された。そのあと、指宿弁護士が投稿している動画などを見ながら、入管管理問題についてしばらく考える日々が続いた。日本でもウクライナから避難してきた人を受け容れているという報道を見るが、今までだってほかの地域から日本に逃れてこようとした人はたくさんいるはずだ。彼らのことはさておき、といったところなんだろうかと、もやもやする。

618日、高尾山へ登りに行った。登山慣れした友人が頂上で火をおこしカップラーメンとチーズや卵の燻製を作ってくれた。梅雨真っただ中のはずであったが、山を登っている間は雨が降らなかった。高尾山の山頂の奥には別の山につながる道があったので、私たちはどんどん先へ進んだ。山を下りた瞬間に雨が降りだした。運がよかったねと笑いあい、一度帰宅してシャワーを浴びた後再び集まって一緒にしゃぶしゃぶを食べた。

 626日、母親の誕生日を祝うために実家へ帰った。プレゼントには、サンタマリアノヴェッラのポプリを選んだ。実家のつけっぱなしのテレビには、ウクライナの映像が流れていた。戦争がはじまったころは陰鬱とした曇天と雪で覆われていた木々や大地だったが、それらがすっかりなくなり、晴天の中に廃墟だけがあった。

その翌日、梅雨明けが発表されたと同時に、私はうっとおしかった襟足を切り、正統派ショートヘアとなった。やっぱりショートヘアが一番性に合っているきがした。

7月に入るといきなり京都へ飛び、撮影を終えるとお土産を買う間もなく帰宅した。日本に直撃かと思われた台風は消滅し、無事に帰ることができたが、撮れた映像は初日を除いてすべて曇天か雨模様となった。出張中に、再び祖母が入院したという知らせと、父親がコロナに感染したという連絡が母親からきた。そういえばコロナが再び流行しているというニュースを見た気もする。

77日、25年間生きてきて初めて晴天の七夕だった。指宿先生の事務所に挨拶へ行き、入管の話や技能実習制度に関して話を聞いた。その日の夜は、一つ前の駅で降りて散歩がてら歩いていたら、空が広く見える道や歩道橋を見つけたので、しばらく空を見ていた。夜には雲が出てしまって、星は見えなかった。

78日、安倍元首相が銃殺された。私は彼に会ったことはないが、大きな喪失感で集中力を失い、丸1日かけて出張費用の精算をすることしかできなかった。会社は騒然としていた。帰りの電車に乗って、乗客を見渡してみる。今ここにいる全員が同じニュースに胸を痛めているに違いなかった。だれも世間話をしたいわけではないが、共通の不安やもやもやが、ずしんと頭にのしかかっている表情をしていた。帰宅してもSNSから目を離せなかった。一人にしてほしい気持ちではあったが、本当に一人になってしまうのは怖かった。

 

一夜明けて、平静を取り戻しかけている。誰かからのいい知らせを待って、山梨の刑務所からの手紙を待って、生活に犬が戻ってくることを待って、おばあちゃんが退院するのを待って、ウクライナでの戦争が終わるのを待って、ウィシュマさんの事件に関して人道的に正しい判決が下されることを待って、願って、願って、願って。

東京の、狭くて壁が薄いアパートの1室で、ありふれた音楽を流しながら、自分と社会の釣り合いをとろうと険しい顔をしているありふれた25歳の女は、明日選挙に行く。

 

おてがみ

 

前略

大好きなあなたへ

あなたと会わない間に季節を一つ通り過ぎて、2つ3つ、季節の花も変わったかしら。きっとあなたはそんな情緒に揺られることもなく、怒涛のように過ぎ去る毎日を仕事に溶かして、さぞ忙しく過ごされていることでしょう。

体のことが最も心配です。あなたの家に行くといつも冷蔵庫は空で、代わりにビタミン剤などの薬の瓶が戸棚に並んでいるからです。お酒が好きなあなたですが、最後に会ったときには禁酒してるとのことでしたね。無理はしてほしくないので、ときには息抜きしてみたらどうでしょう?そんなとき、わたしが隣に居られればと思いますが、あいにくこちらも立て込んでおります。わたしだって、もう子供ではありません。明日からもやることがあります。


あなたの部屋の窓際の小さな水槽で飼われているベタは元気ですか?先日の地震は無事でしたか?聞きたいことはたくさんありますが、文字にしてしまうと急に温度を失ってしまいます。

わたしは何よりもダサいことが許せないので、そんな返事に困るような小言を一切言いたくないのです。でも言葉にしなくては、せっかくの感性が鈍ってしまう。だからこうして、言いたいことは全てインターネットの海に放り投げることにしています。


あなたとの、楽しかったことは数え切れません。なかでも好きな時間は、もうどうしようもない時間帯に街を徘徊すること。東京の下世話な繁華街の裏路地で、前を歩くあなたの後ろ姿を撮っていたことがあります。始めはこっそり撮っていましたが、あなたは途中ですぐにカメラに気づいて、振りかえりましたね。わたしは立ち止まって、繁華街の人混みにあなたが消えていくところでカメラを止めようと思っていましたが、あなたがおいでと手招きをするので、つい追いかけてしまいました。

カメラは回り続けました。後で見返してみたら、街の明かりを見上げて「きれい」というあなたの声が録音されていました。そんな日のあなたが、今のわたしの手元には、居てくれています。


そんな時間はもう我々に訪れないのでしょうか?

会わない時間が愛を育てる、という話を信じていました。しかし、あなたを思っているとどうやらそれは間違いであるらしいことがわかりました。初めのうちは、あなたが目を離している隙にうんと美しくなって、後悔させてやろうなどと、賢しいことを考えました。だけど、それは全く無意味なことです。だって、あなたが再び帰ってくる保証などどこにもないからです。

あなたがそばにいたのはほんの2か月くらいの話。その間にすっかり馴れ合ってしまったことを後悔しました。今まで寄りかかっていた柱を、急に引っこ抜かれたら、それは誰だって倒れてしまいます。わたしは今倒れ、そのまま地面と一緒になってしまうのではないかというくらい長いこと、横たわったままでいます。

あなたを好きだった気持ちがだんだんと、不安と痛みと、ほんの少しの憎しみに変わっていくのを眺める日々は、苦痛です。熟れた果実がその糖分ゆえに腐っていくのは、つまりこういうことなのでしょう。自分から飛び込んだ恋とはいえ、思いのほか甚大な被害です。


先日、このまま一生あなたと会わない未来を想像しました。悲しいけれど、それは一度外れた道が正されただけのことのように自然でした。あなたと出会ったことが、不思議の国の話みたいに全て夢オチであればどんなにいいだろうと思いました。大人になったアリスは、あの夢を思い出すことはあるのでしょうか。

今まで、「別れてもなかったことにはならない」を信条としてきましたが、あなたとの時間は、間もなく「なかったこと」になりそうです。思い切り力を込めてあわ立てたメレンゲが、数秒で口の中で溶けていく、そのあっけなさによく似ています。

わりときつめの呪いをしっかりとこの身に刻み込んだあなたが、この世のどこかで平穏に暮らしていると思うと、とんでもないことをしでかした気持ちになります。だけどこれは一般的すぎるほど、しょうもない恋の形です。気持ちが強ければ強いほど、とんでもなくなるのが恋ですから。

あなたは、わたしが本当につらいとき、そばにいないから好きです。あなたが見ているわたしは、いつもぴかぴかとあなたに向かって光を発する、若くて健気な女です。すてきなところを見て褒めてくれるあなたのことが大好きですから、わたしも精一杯見栄を張ります。見栄を張りたい気持ちがなくなったら、恋は終わりですからね。

だけど今このときばかりは、ぼろぼろのわたしが足を引きずってあなたのところに辿り着くのをご覧に入れたいと思うくらいには、余裕がありません。そんなのを見ても、あなたはきっとなんとも思わないのでしょう。 

 

長々とごめんなさい。

最初から、会いたいって言えば、全て済む話です。

本日も、心からお慕い申し上げています。

 

草々

 

淡々かつ粛々とこなす日々を「元気だよ」と言う。

 

3月。学生だった時よりも、その季節特別に感じない。

私はもう何からも卒業しないし、どこへも入学しない。今まで、ぼーっとしてても着々と日々は進んでいたのは、学生という管理された身分だったからであって、本当は私は何一つ日々をこなしていなかったのではないかと不安になった。

だから、今年の春は、今や私の寂寥感と焦燥感が形になった怪物のような姿で私の前に現れて、今、私を不安にさせている。こんなに気持ちの晴れない春は初めてかもしれない。

毎年のことだけれど、冬の寒さで委縮した肩を、やんわりともみほぐしてくれる春風のせいで、春は何となく開放的な気分になる。体が自由に動くというだけで、底知れない全能感。このせいで、うかつにいろんなことに手を出したくなるのだけれど、実はそれは罠なんじゃないかと思い始めた。どうして暖かくなってすこしきれいな花々が咲くからといって、よい季節と言えるの?

 

うわついた風に誘われ咲くのか桜さまざまな夢の罠

 

 

 

 仕事が忙しくて、言葉と向きあう時間が減った。もっといろんな言葉で表現したいのに、今はそれができないことがすごく苦しい。今、私の中は「やらなきゃいけないこと」でぎちぎちになっていて、一つも言葉を響かせる隙がない。たとえるなら、中に毛布を詰められたクラシックギターみたいな感じだ。弦にゴムをまかれたピアノ、綿を詰められたトランペットともいえる。中身がぎゅうぎゅうに詰まってて、少しも、言葉や感性を働かせる余地がないということ。私が奏でる音楽がないということ。はあ、こんな不器用な文章、いったい誰が楽しんでくれるというんだろう。悲しい、悲しい。

 最近は、仕事をするための言葉ばかり思えようと必死だ。言葉は厄介で、あまりに丁寧に伝えようとすると仕事のスピードは落ちるし、かといって便利な言い回しだけを覚えて使っていると、その仕事を自分がやる意味を見出せなくて、失望してしまう。社会人ボットのように同じ言葉を繰り返すのは、バカみたいで何よりもいやだ。

 

六十匹の狐の歯とともに 眠る王を夢みて3時

 

満ち足りた気持ちになるからセブン・イレブンのたまご蒸しパン ほぼ満月です

 

 

 2月は誕生日もあったのに休みは1日しかなかったし、最悪の月だった。誕生日だって、好きな人と会えると思ったら好きな人もちょうど忙しい時期で、結局会えなかった。そのあとも一向に連絡がないから、彼はもう私のことを忘れたか、どうでもよくなったのかもしれない。新しく恋人ができたのかもしれないし、仕事で忙しいのかもしれない。憶測は、止まらない血のように流れ続けて、私を疲弊させる。

 そんなこんなで一日に数回、彼のことを思い出しては寂しくなることを3週間も繰り返しているうちに、その思い出は懐かしくなりはじめた。最初は思い出すたびに落ち込んでいたけれど、何度も撫でていると愛着がわくものだ。石を磨いているみたいに思い出を磨く。いずれすべての角が落ちて丸くなって、キラキラと輝くだろう。…そう思ったら、全然連絡をよこさない、つれない私の好きな人のことも、許せる気がした。いや、「許せる」なんていうのも本当はおこがましい話なのだが。

 もともと本気でなれ合うつもりも、やりあうつもりもなかった。「付き合わなくてもたのしく過ごせたら、それでいいんじゃないのかな」。なみなみと注がれたハイボールの乾杯とともに交わしたやり取りの中の彼の言葉が、全ての答えなのである。私は、次第に彼のその答えが間違っていることに気づくだろう。いや正しくは、私が彼の器には収まりきらなくなるだろう。今までだってそうだった、そうやって馬鹿な恋を続けてきたのだ、のらりくらりと。

 

願っていてもいいかな あなたの掌が私の頬を覚えているよう

 

忘れたよ、忘れてやるよ君なんて 枯れた花と治った傷跡

 

君じゃなきゃダメなこともあるけれど 君じゃないならどうでもいいや

 

変わらない君の愛が好きだけど変わる君のすべてはもっと好きだよ