がんばれ、おじいちゃん!

母方のおじいちゃんが、今年90歳になった。

90歳は、またの言葉で「卒寿」という。

おじいちゃんは、この卒寿を機に、人生を卒業するのだと張り切っていた。もう十分命を全うしたのだから、ゴルフとマージャン、そして庭いじり以外の一切の趣味をやめ、年賀状のやりとりもやめ、孫たちにお年玉を渡すこともやめるのだと宣言した。90歳になってもゴルフとマージャンはするのか、とは思ったが、それができる90歳でいてくれるのは「めでたい」ことだと思う。

芝と梅の木、そしておばあちゃんが植えている色とりどりの花が饗宴する美しい庭を眺め、気に入った本を読みながら安寧と過ごすことを夢見ていた。冒険に出かける前のビルボ・バギンズのように、その意志は固かった。

ところが2024年9月、いよいよ90歳になろうかという時に、おばあちゃんが大腿骨を骨折し、3か月間の入院生活となった。そしてそれは当然、90歳で人生を卒業するというおじいちゃんの人生プランに支障をきたした。

 いろんなことが突然おじいちゃんの身に降りかかった。おばあちゃんのお見舞い、毎日の掃除と洗濯、食事の用意、おばあちゃんが帰ってきたときの住宅環境の整備など。まだまだ人生を卒業させる気はないと、神様にぴしっとおしりを叩かれでもしたかのように、日々やらなくちゃいけないことに追い立てられることになった。

 

 おじいちゃんは、高度経済成長期にばりばりと右肩上がりに業績を伸ばした、それなりにデカい会社の、結構偉い人だった。会議室に入ると全社員が起立し、おじいちゃんが片手を上げるまで全員着席しないのだとか。

 時代と、そして九州男児の血も相まって、家事育児などは一切しない、いわゆる典型的な「昭和の父親」だったと、娘である私の母は回想する。「向田邦子の『父の詫び状』に出てくるようなお父さんだったのよ。出張も多くて、半年ぶりに帰ってきたときにはお土産がたくさんあった。でもその翌月にはまた別の出張に出てしまうのよ。年末には会社の部下をたくさん家に連れてきて、お台所の手伝いがとても大変だったの」

 孫の私は気楽なもので、そんなおじいちゃんの背中にまたがって、ライオンキングの「ティモンとプンバ」になりきって遊ぶのが好きだった。おじいちゃんは3歳の私にライオンキングのビデオを気が狂うほど見させられ、セリフをすべて暗記させられたという。私を公園に連れていくために後ろに座席がある自転車をわざわざ買って、不慣れでよたよたの運転で、川沿いの公園によく連れて行ってくれた。

 初孫の特権として、おじいちゃんとの思い出はたくさんある。でも、その裏であれこれ世話を焼いて、のびのび遊べる環境を整えてくれていたのはおばあちゃんだ。そのおばあちゃんの危機に際して、おじいちゃんは大変身することを余儀なくされた。

 

 おじいちゃんは生活の基礎から、覚えなくてはならなかった。まずは洗濯機を使えるようになること。三姉妹の娘たちに教わりながら洗濯の手順のメモを取り、洗剤の分量も間違えないように細かく尋ねた。

 風呂やトイレの掃除も自らブラシを取った。数日ぶりに母が様子を見に行くと、排水溝までぴかぴかに磨き上げられたお風呂場を見て驚いていた。体は動くし、元来まじめな人だから、やろうと思えば大半のことはできるようだ。

 食事の用意は毎日負担であるが、同時に楽しみでもあったようだ。90歳になって初めて白米を炊き、ハムとチーズのトーストを焼いた。初めてスーパーのお惣菜を吟味し、初めて無印良品のカレーのおいしさに驚嘆した。

 そんなある日、おじいちゃんのもとに殻がついた栗がひと箱届いた。どこから届いたのだか知らないが、こういう厄介なものを処理して食べられる状態にするのはいつもおばあちゃんの役目だった。あまりに膨大な量なので、三姉妹の娘は、おばあちゃんが帰ってきたときに食べられる分を残して、いくらかを貰ってきた。

 数日後、母が様子を見に行くと、流しに栗の殻が3つ転がっていた。どうしたのかと聞くと、栗ご飯を炊いたのだという。おじいちゃんが自慢げに見せてくれた写真を見ると、ごろっと白米の中に埋まっている栗はまだ硬そうな雰囲気ではあるが、それでも、ちゃんと栗ご飯の形をしていた。あの硬い栗の皮を一人で黙々と向いているおじいちゃんの姿を想像して、いとおしくなった。「3つ…3つだけかあ」「遠慮がちだねえ」と母と笑いながら、私たちもその夜、栗ご飯を食べた。

 

 一方で、病室のおばあちゃんはというと、気力を失わないように必死だった。病気ではないので投薬もなく、とにかくリハビリ続きの毎日。明るくおしゃべり好きな人なので、同じ病室の人とすぐに友達になったのは幸いだった。

 しかし病室は人の思わぬ一面を引き出す性質がある。そして怪我もまた、人の不安を煽る。入院中のおばあちゃんはときどき、娘三姉妹におじいちゃんの愚痴を聞かせた。「私が家にいないのに、これからの家のことを全部決めようとする」「差し入れを持ってくるタイミングが合わない」「私が持ってきてほしい靴下とは違う靴下を持ってきた」などなど。そしてそれを小耳にはさんでしまったおじいちゃんが、怒ったり悲しんだりすることもあった。三姉妹の娘たちは、そんな両親の気分の浮き沈みをなだめながら、どうにか退院まで二人の気持ちを盛り上げようと尽力していた。

 三姉妹の娘たちはみんなそれぞれ結婚しており、また別の「家族」を営んではいるけれども、こうして何かトラブルがあるとみんなで毎晩のようにグループラインで相談していた。思っていることとか、考えていることは全然バラバラで時には意見が合わないこともあるけれど、誰かが流れを作りそれに便乗するという形でゆっくり話が進んでいった。誰か一人が全部決めることはなかったみたいで、みんなでちょっとずつ意見を出しながら、そしてちょっとずつ引き受けたり譲ったりしながら、絶妙なバランスを保ち、家族全員の仲が良いまま退院までこぎつけたのだ。 

 そんな風にして気を紛らわせながら、意外にも3か月はあっと今に過ぎた。入院したときから2つ季節が過ぎ去って、もうマフラーが必要なくらい寒い。でも、退院の日はイチョウが青空に映える晴天だった。

 

家の中も、おじいちゃんもおばあちゃんも全部変わった。

おじいちゃんは掃除と洗濯と炊飯ができるようになった。おばあちゃんは腰に人工関節を入れた。それに伴ってお風呂には介護用の椅子が置かれ、玄関には靴を履くための椅子が置かれた。2階にあった寝室は階段の昇降を避けるため1階におろされた。食卓も今までは畳に座る低い机だったが、高いテーブルとイスに買い替えられた。ついでに、なぜかトイレのリフォームまでした。

退院したその日の夕食で、おばあちゃんはワインを3口飲んだ。電話口のおばあちゃんの声は少し泣きそうだけど深い安堵感に身をゆだねているような、温かい声音をしていた。「いろいろ様変わりしていることはあるけれど、やっと戻って来られた」といった。安心して眠れる、と庭がよく見える新しい寝室を喜んだ。

おじいちゃんは、おばあちゃんの不在の時、今までのおばあちゃんの苦労に思いを馳せることもあったようだ。自分一人の生活を3か月続けるだけでもよたよたしていたのに、それを60年近く家事の全てを引き受けて、文句を言わずに続けてきたおばあちゃんの偉大さが身に染みたようだ。同時に、暮らすとは、生きるとは、案外もっと面白いかもしれないと気づいたようでもある。栗を3つ剥いて栗ご飯を作ろうと思ったその好奇心が、何よりの証だろう。人生を卒業しようとする人がする所業ではない。

 

 家族を続けるということは、ほころんだ服を直しながら大事に着続けることに似ていると思った。長く一緒にいれば、元気がなくなったり怪我をしたりする。でも、破れたりほつれたりしたところを直せば、また着られるようになる。時にはあたらしい布をあてがうこともある。ずっと変わらずにいることは不可能だけれど、ずっと大切でいることはできるのかもしれない。「円満な家庭」という、最も身近で最も難しい課題の、一つのあり方をわたしは、母方の祖父母に見せてもらえた。

 

「やっとおばあちゃんの料理が食べられるよ」

電話口の声は弾んでいる。

わたしの90歳のおじいちゃんは、とてもめでたい。