テレビドキュメンタリーを撮る仕事のこと

 よく晴れた日の秋晴れは、犬が死んだ日のことを思い出す。朝、多分最も美しい朝の時間に彼は旅立った。その日は雲ひとつない晴天で、きっと迷うことなく天国に行けるだろうと思えるような日だった。わたしも、死ぬ日を選べるならあんな日がいい。君は本当に、いい日を選んだ。11月1日、ワンがゾロ目で3つ並ぶ日。

わたしが9歳の頃から、彼はわたしの毎日の中にいた。彼はわたしの進学を全て見届け、就職した年にこの世を去った。亡くなる半月前、もう見えていないはずの真っ白い目でじっとわたしを見つめてきた時間のことを、今でも忘れられないでいる。その頃はまだ散歩ができて、彼がもうじき死んでしまうところにいるなんて、わたしにはわからなかった。亡くなって思い返して、やっとその時間が尊かったことを知る。何度思い出しても泣いてしまう。

・・・いや、そんなことじゃない。今日考えるべきはそんなことじゃないのだ。いやどうも、この季節に深く考え込もうとするとまず真っ先に秋晴れと大切な犬の死が重なって、明るいのか暗いのかよくわからない気分になる。落ちる葉もあれば実る果実もある、秋の性質のせいだろう。

 

実ったもののことを考えてみると、意外に少ない。少ないけれど、どれもお気に入りばかりという手触りがする。ここ最近やっと形になってきたのは、仕事の仕方だろうと思う。

 都内の小さな番組制作会社に勤めている。このブログでそんなことを書くのは初めてかもしれない。学生の頃は、勉強していることと自分が普段考えていることが全然違ったので、このブログには論文にはできないことを書いていたけれど、社会人になったら、仕事中に考えていることと普段考えていることに重なる部分が生まれてきた。それがいいとか悪いとかは別にして、そんな日々を気に入っている。

 わたしが勤めている番組制作会社では、主にドキュメンタリー番組を作っている。世間一般で「ドキュメンタリー」といえば・・・、思い浮かべる番組はなんだろう。ひとに紹介するときは、だいたい「ガイアの夜明け」とか「情熱大陸」とかいうとわかってもらえる(が、厳密にはあんなのはドキュメンタリーではないよなと思う)。最近人気なのは「ザ・ノンフィクション」か。でも骨太のものと言ったら、やっぱりNHKスペシャルETV特集になるかなと思う。NHKの報道は批判も多いが、ドキュメンタリーは好きという人が多い。予算も取材期間もたっぷりもらえるのでわたしもNHKの仕事は好きだ。

星の数ほどある映像プロダクションの中で、弊社ほど愚直にドキュメンタリーをやっている会社は意外にも少ない。ドラマやバラエティを作る機会は少ないので、頻繁に芸能人に会えるわけでもないし、グルメ番組に出てくるようなとても美味しい料理も残念ながら期待できない。地味だ。果てしなく地味だ。だから正直な話、やりたがる人は少ないよな思う。

 

具体的にどんな仕事をしているかというと、入社してから最初の2年間は、いわゆるAD(アシスタントディレクター)の業務をこなしていた。

言い慣れないビジネス用語を使って、取材交渉の電話やメールを送ったり、撮影候補地となりそうな場所をネットで探し回ったりなど、いわゆる「仕込み」の業務が多い。

撮影が済むと、映像素材を整理して、編集期間に入る。その間には、足りない映像を取り寄せたり、ナレーションで語るべき情報の裏どりに奔走する。同時に、番組の原稿を書く。これが驚きで、番組の中で何分にどんな映像か、誰がどんな発言をするかを全て書き込まなくてはならない。ナレーションはもちろんのこと、インタビューの発言もカメラワークも全てである。「03:57  〇〇選手インタビュー ZI(ズームイン) 今回の試合は〇〇が××で・・・云々 」とか、そんな具合だ。ドラマだったら先に台本が出来上がるところが、ドキュメンタリーではその順序が逆。そんな小さな事さえ、入社したてのわたしには驚きだった。

 何気なく聞き流している人も多いだろうが、ドキュメンタリーのナレーションはディレクターが命をかけて書いていると言ってもいいだろう、少なくともわたしはそうだった。語感、分かりやすさ、情感、映像や登場人物の言葉を邪魔しないくらいの匙加減。トランプタワーが絶妙なバランスで立つのと同じくらいの繊細さで、それは成立している。語彙力と言ってしまえばそれまでだが、たとえば、「思い出」か「記憶」かで悩む、「生きる力に」か「生きる力へ」かで悩むとか、そういった具合だ。ナレーション一言決めるのに、10秒の映像を30回くらい見る。本当に、大袈裟じゃなく。だから、1.5倍速とかでみられたら、たまったもんじゃない!

 

極端な話、ドキュメンタリーは台本もリハーサルもないまま撮影をするので、どれくらい何が撮影できるかわからない。天候の都合で撮影できないこともしばしば、海外のスポーツ選手を撮ろうとしたらすでに引退しているとか、現地についてみたら下調べしていたことと全然違う現象が起きていることもある。人の世はまさに、生ものだなと痛感する。

撮れだかが心配だからといってずっとカメラを回し続けるのは、機材のバッテリーやSDカードの容量を食うとかで推奨されない。編集のときに長すぎる素材をラッシュ(撮影した素材を見返すこと)するのも相当骨が折れるので、優秀なディレクターはそんなことをほとんどしない。

ADのうちは、そういったことをディレクターの手伝いをしながら学ぶ期間だ。ADといえば、雑用ばかりさせられ、そのせいで「こき使われる」というブラックなイメージがあるようだが、そんなふうにこき使われながら取材の勘や肌感覚を学んでいくのだ。社内では、「早くディレクターになれ」という人と「下積みをしっかりしないとディレクターにはなれない」という人とで綺麗に意見が分かれているが、わたしは後者の意見に賛同だ。下積みにもちゃんと理由があるもんだ、いや上手くできてるなと思う。

わたしは昨年、自分が取材したいと思うネタでNHKで1本50分くらいの番組を作った。もちろんその頃のわたしは絶賛見習いAD期間だったので、社内でも優秀な先輩ディレクターの全面的なフォローを得て、1年かけてやっと完成させた。

人の命が関わる医療現場の一端を見せてもらう撮影だったので、取材から編集までずっと気を張っていた。その間、取材させてもらったある人は亡くなったり、ある人は転院したり、いろいろなことが起こった。普段の生活の中に取材という異分子が紛れ込むことを許してくれる取材対象者の方には本当に頭が下がる。

その番組の取材中、普段寡黙な先輩ディレクターがとても真剣にわたしに言った。「俺たちの仕事は、人の人生で飯食ってるようなものなんだよね」と。ドキュメンタリーは得てして人生の大切な瞬間にカメラを向ける。喜びの瞬間、憧れや期待、離別の悲しみのどん底、葛藤、先が見えない不安、もどかしさやときには諦め。

 人を撮り続けている限り、そこには何らかの表情があり心の動きがある。彼/彼女の生活の中の、意味のある一瞬。ドキュメンタリーを作るということは、それを  “誠実に“  解釈しようとする絶え間ない努力の繰り返しだ。

もちろん、いつも正しく解釈できるとは限らない。「こうだろう」とこちらが期待していても、当の本人が全然意に介していないことはよくある。逆に、こちらの何気ない一言が、相手を深く傷つけたり、怒らせたりすることもある。カメラに映る現象の全ては、私たち取材班と取材対象者の相互作用の結果だ。そういう意味で、ドキュメンタリーが「客観的」でいるなどありえない。

そう、誤解されがちだがドキュメンタリーが描くのは真実ではなく主張だ。何を撮るか、誰に何を問うか、ことごとくディレクターの主観的が反映されている。何かを明らかにしようと取材対象者に尋ねるとき、わたしたち取材班もまた問われている。結果として映像に表現されるのは、中立でも、たった一つの真実でもない。(ただし独りよがりでももちろんない。)

緊密な相手との関係や、取材相手と長く時間を過ごしたことで生まれた主観が織り交ざったドキュメンタリーは、味わい深いとわたしは思う。「ドキュメンタリーとは格闘技である」と言い表した原一男の言葉はちょっと過激だけれど、確かに殴り合いに似た緊張感がある。直接パンチをくらってどこかを痛めた取材陣が作るドキュメンタリーは、すごみがある。覚悟みたいなものさえ感じる。

ディレクターの主観の持ち方、というのは、この仕事を志す人にとって一生の課題だろうと思う。偏見があってはいけないし、無知はもってのほか、見て見ぬふりは論外、できるだけ多くのことに気づいていなくてはならない。気づいたことの一つずつを検証しなくてはならない。自分の細かい感情の動きにすら、敏感でなくてはならない。そして視聴者に気づかれないくらい透明でさりげなく居なくてはならない。

 

 携わった作品の数はわたしなんかまだまだ少なくて、その中で果たした仕事もまだまだ小さなものだ。だから、入社してからの3年間の実りというのは少ない。だけれど、その一つ一つの味がめちゃくちゃに濃い。そんな仕事ができることに今は充実を感じる。正直、あともう少し給与が上がったらいいなと思うところだけど、それは自分が十分実力をつければ自ずと後からついてくるんじゃないかと思うしかない。

来年もめげずにこの仕事ができますように。