ある日の歌舞伎町とそこから始まった出来事のこと。

「次は新宿、新宿」

丸の内線でこの駅の名前が告げられると、そわそわとつま先が所在なさげに動く。ドアが閉まる直前まで、降りるかどうかを迷い、一息ついて、人混みに巻き込まれたせいにして降りてしまう。年が明けてから週に2,3回、こんなことを繰り返した。

 新宿は学生の頃も何度となく通った町だ。神奈川県の実家から山手線沿線の大学に通っていた私にとって、そこは東京の玄関のような駅だ。

小田急線に乗ればいつでも温かい実家に帰れることを甘くほのめかす西口の通用口、そうだ、あそこがリニューアルされたころ、私は大学を卒業したんだっけか。学生の頃バイトをしていたレストランは、ビルの改装工事の都合でとっくに店舗を移っていた。

 丸の内線の織場から新宿三丁目のほうへ向かう地下通路のちょうど真ん中あたりに「サブナード」と書かれた明るい青の看板がある。そこを通ると、歌舞伎町まで最短距離だ。

 

ベンチコートを着てホワイトボードを持った女の子。飲み放題1時間3000円か、そこそこだね。3人くらいの黒人グループのうちの一人に目を付けられて手を振られる。「お姉さんかわいいね、オリエンタルな感じがする」「ありがとう」。そびえたつゴジラを古いデジカメに収めようとのけぞってシャッターを切るおじさん、この人どこから来たのだろう。犬カフェの入り口には、店員に抱かれて退屈そうにだれているポメラニアン。かわいいけど、ここの犬っておやつしか見ていないから少し残念なんだよね。ペットロスの私の心を束の間癒してくれたヨークシャーテリアのふたばちゃんは、元気にしているだろうか。

頭上からしきりに降ってくる客引き禁止の啓発アナウンスが荒っぽい関西弁で、この夜の街をふらつく放蕩者を𠮟りつけている。風俗も飲み屋も一緒くたになったカラフルな看板を見上げていると、その彩に心のどこかは奮い立ち、また自分の存在がずぶずぶとこの町に埋まっていくことに安心感を覚える。猥雑さも純粋さもその区別がつかないまますべてが路上に投げ出されてそこに在る、ただ在る歌舞伎町が、好きだったりする。

 

ある日の歌舞伎町とそこから始まった出来事のこと。

「駅からトーホーシネマズまでのあの道を、だれからも声をかけられないで歩けたらその日はいい日だなって思うんだよね」

待ち合わせに遅れてきた私を笑顔で迎え、彼はのんきに言う。

「私はここに来る間に3人に声かけられたので完敗ですね」

「いいじゃん、声かけたくなるような女の子だったんでしょう。まあたしかに今日の君はかわいい!」

「セクハラですよ」

「嫌ではないはずだ」

嫌ではないというか、時代錯誤なあなたのことを少し諦めているところがあるんです、まあ年齢も20近く違いますしね。とは言わないで、しばらく私たちは町の喧騒に身を沈めるように散歩する。路地裏を抜けて大通りに出た瞬間の街灯のきらめきに「きれい」と目を細めたその人は、嘘がなく美しかったので、好きだと思った。

その人と私はある飲み屋で出会った。目が合って「おや、妖精みたいな子がいる」と、最近の人間にしてはやけに芝居じみたセリフを第一声に放ち、ゆうゆうとハイボールを飲み干した。全身真っ黒い服に、シルバーのネックレス。指輪は3つ、つけていた。耳が隠れるくらいの長さの髪は私好みで、店内の明かりが透けるとほのかに人工的な赤色が目立った。

怪しいと思いつつ、話をよく聞くと、わたしと同じような仕事をしている人だった。わたしはドキュメンタリーの制作だが、彼はドラマの制作だということが分かった。それから何度か一緒に出掛ける仲になった。

彼とは大半が居酒屋かゴールデン街だったが、たまにいかがわしい店へも連れていかれた。トーホーシネマズの横の広場の人々を観察してたこともある。「こんな時のためにサングラスが欲しい。視線がばれないからずっと人間を見ていられるんだよ」。なんだよ、その理由。その夏に買ったサングラスをかけるたびに、その人のその言葉を思い出す。こうなってくるともう呪いだ。

 「アンダーグラウンドのこと知らないでドキュメンタリーなんか撮れないよ、そんなの全然、作品として惹かれない。いやだよそんな表面的なところだけ見せて、ああ泣けるねなんて、そんなのドキュメンタリー見たくない。君はアングラに身を置いていていい人間だ。同時に、そこに染まりきらない賢さも持ち合わせているだろ」

まだ数回しかあったことないのに、わたしのことを昔から知っているみたいな口ぶりで言うその人のことを、好きになってしまうのは多分簡単だった。決心一つでえいやっと、バンジージャンプのように落ちていく。すごく怖いけど、多分死なない。いや、懇願したって殺してくれない。

 当時付き合っていた人と別れたときも、おばあちゃんが死んだときも、犬が死んだときも、彼に話した。彼は、失うことに慣れている人だった。「人生なんて終わってみないとわからない」と彼はいう。おばあちゃんが死んだと連絡したときも、お構いなしに飲みに誘ってきた。「現世は生きている人のためのものだよ。その人が生きていた世の中を肯定することが残された者どもの使命だろ。来週の金曜、あけておいて」。

 失うことに慣れすぎていて、その言葉や振る舞いにはいつも喪失感がまとわりついていた。人生のどこかの時点で、手に入れることをあきらめたかのような無気力さもあった。真剣に交際する気は毛頭なく、とっかえひっかえ女性の気配がして、わたしもそのうちの一人にすぎないのだと理解した。よくよく理解した。受け入れてしまえば不思議と悲しくはなくて、むしろ気楽だった。そしていつしか私もその、無気力感を叩き込まれたらしい、だれのことも欲しいと思わなくなり、期待しなくなった。目の前のその人のことも。

 

「最近恋人出来たの?」

3か月振りにあった日に、軽いジャブを打ってみた。

「君に恋人ができるまではできないよ」

ぬるりとかわされ、わたしは不服だった。なぜそんな、こちらを脱力させるようなことしか言えないんだ。

ほどよくぬるい湯船からなかなか上がれないのと同じように、私たちの間柄はなかなか断つこともできなければ終わりも見えなかった。いまさらそんな緊張感をここに持ち込んだところでどうにもならないのは目に見えているのだけど、問いかける私はいつも絶壁に立たされているような気持ちで、あとはあなたの一押しさえすれば、いつだって飛び降りれるようにしているだけのことだった。だけど、あなたは殺してくれないんでしょう。

 

「次は新宿、新宿」

 わたしたちはいつも、新宿の街角の風景の一つだったのだと思う。投げ捨てられた空き缶同様、そこに意味も理由もなく、ただ「在る」というだけ。女一人の心の中で煩悶しても、日本一の繁華街は無数の夜の中にそれを押し流していく。私はあの街であなたとそう在って、初めて“無意味”ということを知ったのだった。