愛している、が、ちゃんと伝わっているかしら。
「愛している」と誰かに言われると、犬がお手の芸をするみたいに「愛している」と答えてしまう。わたしはとても人を愛したがるから、これは本当に「愛している」なのかしらとときどき厳しく問いたださなきゃいけない。
本当に愛している?愛されたいから愛したがっているだけじゃないのかしら。
私が「愛している」を言うときは、誰かの「愛している」の返事でしかなかった。「愛している」の後にある「あなたは?」という心の声を聞いて、答えなくてはと思ってしまう。「愛している」と私が答えると、相手はとても安堵するか喜ぶかする。好ましい反応なので、私はこれでよかったんだと学ぶ。「愛している」には「愛している」が模範解答。「好き」には「わたしも好き」が正解。
相手に不安を与えたくなかっただけで、私は本当に「愛して」いただろうか。
どうしても「愛している」と答えられない人に出会った。何度も言ってくれるのに、どうしても答えられなかった。わたしにはそのとき、他に好きな人がいたからだ。模範解答よりも、自分の気持ちを優先できた気がして、ちょっと嬉しかった。本当に好きな人のために「愛している」をとっておくことを学んだ。
わたしが「愛している」と答えないのに、彼はたくさん私に「愛している」と伝えてくれた。それは言葉のときもあったし、贈り物のときもあったし、あったかい手のひらのときもあったし、まなざしのときもあった。今まで「愛している」をちゃんと返してあげないと、水が足りない植物みたいに元気をなくしたり、去って行ったりする人ばかりだったけど、その人は違った。その人の「愛している」は、泉みたいに湧いていた。その愛情に浸かって一年が過ぎたころ、私の「愛している」は、彼のものになった。
ちなみに、かつて好きだった人への愛情は、友達として「慕っている」程度に過ぎなかったらしい。そんなことにも気がつかなかったなんて、私は本当に莫迦で、恋愛音痴だ。虚をつかれたというか拍子抜けだったというか、膝カックンを食らったような気分だった。あれは「愛している」じゃなかったんだ。
今は、「愛している」に少しずつ答えてみているけど、なかなかうまくいかない。言われたから答えるんじゃなくて、ちゃんと「愛している」をいいたい。「愛している」をただの返事にしないためには、わたしが先に言わないと意味がないのに、いつも先を越されてしまう。だったら早く言ってしまえというだけの話なんだけど、今伝えてもいいのか、もっと後で適したタイミングがあるのかな、なんて考えてしまって、いけない。受け取ってもらえなかったらどうしようとか、笑って済まされたらどうしようとか、いろいろ考えちゃって、もっと言えない。これまで出会った人がそうであったように、私も無意識に「愛している」のあとの「あなたは?」を痛いくらいに叫んでしまう。そんな「愛している」は、相手にとって重荷でしかないんじゃないか。なんて考えてしまって。
・・ほら、今日も言えない。
言葉では言えない代わりに、頻繁に会ったり電話をしたり、会ったときにはぎゅっと手を握ったりして伝えているつもりだ。一年前のデートの話をしたり、もらったものを持ち歩いたり身につけたりすることもわたしなりの「愛している」の伝え方だ。気づいているだろうか、届いているだろうか。
今までは、相手を喜ばせることばかり気にしていて、それが「愛している」だと思っていた。喜ぶ顔を見たいと思うこと、これも確かに愛情の一つだけれど、それだけじゃないらしい。例えば、その人のことをわかりたいと思い、それと同じくらい強く自分のことを知ってほしいと願うこと、音楽や本の趣味が混ざりあうこと、それが心地いいと感じること。肌が触れあって嬉しいと感じること。そこに性がなくても幸せを感じること。「愛している」をじっと見つめると、本当にいろんな顔をしている。
愛している、は、ちゃんと伝わっているかしら。
こんなことを心配してしまうのは、まだ相手を信じ切っていないからなのか、自分に自信がないからなのか。いまは恐る恐る差し出すことしかできないけど、いつかは相手も自分も、すべてくるんでしまう「愛している」を伝えてみたい。