シンデレライデオロギー

シンデレラという物語はもともと凄惨な復讐劇であったことはもうとっくに有名になった話だ。それが、夢見る乙女の純愛恋物語への変貌を成功させたのは、ディズニーアニメの大きな功績なのかもしれない。

ディズニーアニメが、もともとの童話のストーリーを改変して、あたかもそれが恋愛の正解のように世界中に向けて語ることは、アメリカナイズと言えないこともないわけで、本来その童話が持っている多様な解釈を見えなくしてしまう問題点がある。それでもまあ、綺麗で楽しい映像作品をわかりやすく摂取してロマンスに浸るのは、別に全然悪いことじゃないし、そういう消費に基づく趣味で自己のアイデンティティを形成することだって、許されているどころか奨励されている。そういうところに乗っかって自分にタグを貼り付ける方が、何もないところから始めるよりも、たぶんずっと生きやすい。


ロマンティックラブイデオロギーとは、近代の恋愛結婚を強力に推し進めた、近代的イデオロギーの一種である。一言で言えば、恋愛感情に基づいた結婚、という話。あたかも自由を獲得したように見えるこのおめでたいイデオロギーは、これまで制度の中に閉じ込められてきた政略結婚をこぞって悲劇に仕立て上げ、一夫多妻の社会を猥雑なものと眼差した。恋愛結婚の一人勝ちである。

幼い頃からこのロマンティックラブイデオロギーを少しも疑わなかったのはなぜなら、ディズニーによって脚色されたシンデレラという物語があまねく少女たちの頭の中に、あの美しい変身のシーンと共にしっかりと刻み付けられていたからではないだろうか。

ただし、シンデレラという物語をじっくり観察すると、このストーリーには綻びがある。チビクロサンボが人種差別であるという理由で絶版になったくらいなら、シンデレラは女性蔑視の物語として絶版・放映禁止になってもおかしくないと、わたしは思う。


まず一つ目は、王子はシンデレラに惚れたのは、単に魔法で着飾っていたからというものである。

王子は別に、シンデレラが継母や姉妹に散々いじめられていたことを知らないし、家庭内での彼女の働きぶりも全く知らない。ただ、魔法にかけられた状態で舞踏会に現れた彼女に一目惚れしただけの、本当にそれだけの恋愛なのだ。

女の子は美しくあるべき、美しくありさえすれば、いつかきっと王子様に見初められる…という幻想を、しっかりと少女たちの手に握らせてしまう。女の子は男に気に入られるために、常に魔法にかけられていなければならない。


二つ目は、シンデレラという物語の象徴ともいえる、ガラスの靴をめぐる考察である。

よく考えて見てほしい。ガラスの靴で歩けるのだろうか?踊れるのだろうか?走れるのだろうか?

その冷たい靴、履いたらどう頑張っても身動きが取れなくなる靴は、女の自由を奪う象徴的なものである。さらにいうならば、それを破壊しようとすれば、ガラスの破片は足に突き刺さり、もう本当に本当に身動きが取れないことになる。そんなものが、12時の鐘以降、王子とシンデレラをつなぐ唯一のものだったのだ。



一体何が、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、だろう。幸せとはなんなのだろう。あの絵本のページの後、あの映画のエンドロールの後、何が起きるのだろう。

現実に戻された私たちだけが、結ばれた後のストーリーを、身をもって体感することになる。何度だって問いたい。本当に幸せ?



ハツカネズミはハツカネズミのまま、かぼちゃはかぼちゃのままで、愛したい。

12時の鐘が鳴っても余裕で構えて、男を試すくらいの度胸でいたい。

ガラスの靴なんて粉々に砕いていたい、痛みも傷も恐れずに。



自分を苦しめている「こうでなくちゃ」というのは、意外に自然な状態で、しかしかなり根深く、心のそばに寄り添っている。でもたぶんそういうのは、いくら疑っても死ぬことはないし、脱いで見たら意外に身軽になれるものだと思う。



立ち上がれシンデレラ、

あなたに魔法は必要ない。