玉子焼き

随分妄想過多な文章が出てきたのでこれも供養っと。

 

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わたしが、たまごを食べられなくなったのは、中学生のころだった。ウズラのたまごを口に含んで、そこでひなを孵すという悪趣味な夢を見た。その夢のせいで、わたしはたまごを口にすることができなくなった。

 結婚して家を出て、自分で料理をするようになってからも、卵料理だけはつくろうという気持ちになれないでいるのだが、ある日突然、旦那が「玉子焼きが食べたい」と言い出したのだ。独特の箸の持ち方で、鯵のひらきの身をほぐしながら。

 彼の箸の持ち方は、どうにも不器用に、幼く見える。彼と出会ったのはお互いに大学生のころだったのだが、その頃からこの癖は変わらない。二十歳を過ぎても変えられないものを変えるのには多大な労力を要するので、最初はよくからかったが、もう注意しなくなった。むしろ、そんな持ち方でよく食べられるな、などと感心しつつ、観察するようになった。

「玉子焼き、作ったことがないの」

「じゃあ、俺が作るよ」

 玉子焼きには、少し苦い思い出がある。

母が作るお弁当には、いつも玉子焼きが入っていた。あの悪夢を見るまでは、わたしは何の抵抗もなくそれを食べたものだった。優しい色合いの玉子焼きは、お弁当の中に行儀よく収まっているだけでちゃんと映えた。母が作る玉子焼きは、決まって、いつも甘い。時々、青のりが入ったものや、カニカマを投入してくることがあったが、私と妹が痛烈に非難したために、作られなくなった。そのあと、わたしは卵焼き自体を拒絶するようになったのだけれど。

 初めてわたしが玉子焼きを残して帰った日、お弁当を見て、母は、「おいしくなかった?」とわたしに訊いた。

 てっきり、食べ物を残したことを怒られると思っていたのだが、罪悪感のほうがずっと勝った。そのときの母の情けない声音を思い出すだけで、今でも胸がいっぱいになる。

旦那に自分の料理をふるまうようになってから、ようやくその寂しさがわかるようになった。幸い、わたしの旦那は、わたしが作るものをなんでも食べてくれる。例の子どもっぽい箸の持ち方で。育ち盛りの少年みたいな食べっぷりは、見ていて気持ちがいいくらいだ。しかし、いつか、どこかのタイミングで、彼が私の料理を食べなくなってしまったらと思うと、それはたまらなく悲しい。悲しくて、寂しい。

 翌日、わたしがアラーム音で目を覚ますと、すでに隣に旦那の姿はなかった。台所へ行ってみると、旦那が妙な寝癖をつけたまま、カチャカチャと軽快な音を立てて卵を泡立てていた。

 台所に立つその後姿が、母の背中と重なって、泣きそうになった自分に驚いた。似たところなど、一つもないはずなのに。玉子焼きのせいで、センチメンタルになっているのかもしれない。

 カーテンもあけず、しんとしたリビングの真ん中のキッチンで、母の頭の上の電球だけついている。たまたま早く目が覚めてしまった日に水を求めて台所に行くと、決まってそういう光景があった。チチッと、やかんを火にかける音、みそ汁に入れるねぎを刻む音。それはまるで秘密の儀式みたいで、幼いわたしを魅了したものだった。母は、振り返って言う。目、覚めちゃったの。まだ早いから寝てきたら。ううん、もう眠くない。そう。

 母は、わたしにグラス一杯のオレンジジュースをくれる。早起きできたいい子にはご褒美をあげます、と。

「おはよう」

彼は、まだ少し眠そうな顔をこちらに向けて言った。

玉子焼き一つ作るのに、五時半から起きる彼の気合の入れように、不意に笑いがこみ上げてくる。

「なんで、笑うの」

「卵焼き一つで、こんなに早く起きるなんて…寝癖も直さないで」

「そんなにひどい寝ぐせついてる?」

「現代美術みたいだよ」

つられて彼も笑うので、それまで軽快に鳴っていた菜箸の音が少し乱れた。きれいに割れた卵の殻がふたつぶん、流しに捨ててある。わたしの手には少し長い菜箸も、彼の手にはちょうど良く見える。きれいに整った手の形を見ておや、と思う。菜箸は普通に持てるようだ。

「言ってなかったけど、俺、玉子焼きにかけてはプロだよ」

「どうして」

「当番だったから」

「玉子焼きの当番?」

「そう。夏休みの宿題でご飯を作る宿題が出た時に母さんから教わったの」

 彼の言うことは、どこまでが本当でどこからが冗談なのかがよくわからない。

 彼は冷蔵庫から白だしを出して、きっちり軽量スプーンで量った分を卵液に投入した。彼がこれをやるとなぜか急に、「料理」が「実験」の様相を呈する。

「しょっぱいやつなんだね」

「お砂糖も入れるよ」

 そういって、彼は山もりの砂糖を加えた。そのほかに、みりんがくわえられる。単なる玉子焼きというよりは、だし巻き玉子のようだ。

 彼は意外に慣れた手つきでフライパンを火にかけて、うすく油を敷いた。じゅうっといい音がして、フライパンはたちまち黄色の海になる。ふくふくと波打って、やがて一枚の布が出来上がった。彼はその薄黄色の絨毯を器用にたたんでいく。空いたところに再び卵液を流しいれ、それもまた丁寧に巻いていく。そんな手順を繰り返すあいだ、彼のその手つきには迷いも狂いもなかった。

 焼きあがって、甘い湯気を立ち上らせる金塊に似た姿の玉子焼きは、無事にフライパンから引き揚げられ、まな板に乗せられた。つやつやとやさしい黄色は、わたしの記憶の中の玉子焼きよりも一回り大きい。

「俺の母さんは昼の料理番組でやってるやつをその日の夕飯にするような人だったんだ。だから、おふくろの味ってあんまりぴんと来なくて」

 彼が玉子焼きに包丁を入ると、きれいに層になった断面が現れた。

優しい玉子焼きのにおいが朝の台所をいっぱいに満たしている。玉子が、こんなにうっとりと優しい匂いだったなんて知らなかった。深くやわらかいものに抱かれているみたいな心地。

「でも、玉子焼きだけは、いつもちゃんとおんなじ味がしてさ。だから、唯一これが、俺にとってのおふくろの味ってわけ」

 彼が一切れの玉子焼きを菜箸でつまんで私の口もとによせた。

「食べてみて」

口に含むと、まずやわらかい歯ざわりに驚く。たまごのふくよかな風味が砂糖の甘味に乗っかって、ほわっと口いっぱいに広がった。わたしが嫌厭している半生の触感も生臭さも感じられない。

 その人が作り出す味を味わうということは、その人の人生や経験を垣間見ることだ。この玉子焼きは、彼が十分に愛情を受けて育てられてきたことを証明する味をしている。彼の優しさや包容力の理由がはっきり分かる。

「おいしい?」

 わたしがうなずくと、彼は嬉しそうに笑った。

おいしいなんてもんじゃ足りないくらいだ。味覚以外の感覚も、ぜんぶ、優しさに包まれるような心地だった。

「うん、おいしい、おいしいね」

 中学の悪夢以来、たまごを全面的に拒否してきた。二十歳を過ぎても変えられないものを変えるなんて、到底無理だと思っていたのに、こんなにもたやすく変えられてしまうとは。

 それまで全くの他人だった者同士が出会って、それまでの人生を、見せあったり交換したりする。そこで編まれるのは、今までの自分じゃ想像できなかったような新しい物語だ。変わらないとあきらめていたことが、その物語の中では、変わる。わたしは2つ目の玉子焼きに手を伸ばした。

「ねえ、菜箸はちゃんと持てるのに、どうして普通のお箸は持てないの」

「ああ…今、すっごく気をつけてるんだよ。昨日魚食べてるとき、俺の手元ずっと見てたでしょ。なんか恥ずかしくなって。これから少しずつ直していこうかなって」

「ん」

 時計を見ると、時間はまだ6時になったばかりだ。もう間もなく玉子焼きの匂いはみそ汁とご飯の匂いに変わるだろう。

だけど、まだもう少し、この匂いの中に居たかった。

 

 

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たまごが嫌いになった理由は、本当。