2020-2021

 この記事は、2020年を振り返り、2021年ってこんな感じかな?と空想する、自分のための書置きだ。

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 2020年はまるでタイムマシンの中にいたみたいに、今までの自分の日常とつながりがない年だった。

自分が納得しているかいないかに関わらず、外出を自粛させられ、人と画面上で会話することが当たり前のようになった。国から10万円をもらい、レジ袋は有料になり、口紅の色はどうでもよくなった代わりに、無防備な顔には妙な恥じらいがつきまとうようになった。

 外出自粛の結果家にいることが増えたわたしは、家族全員分の食事と洗濯物の処理を頼まれ、ときに機嫌よく、またある時はこの世の終わりのように不機嫌に、それらをこなした。家族全員分の家事をこなすくらいなら、六畳一間のワンルームで自分のことだけ面倒を見て生活したい、そしたらどんなにラクで楽しいだろうということを、考えずにはいられなかった。だけど、コロナの影響を受けアルバイト収入を絶たれていたのだからそんなのは虫がいい話というもの。生活できる拠点があるということだけで、家族には感謝するべきだろう。

 大学の講義は原則オンラインとなり、学生定期の購入が必要なくなった。4月8日で止まった学生定期を見るたびに「こんなはずじゃなかったな」と思う。大学に通っていたころは講義のついでに友達と飲み歩いたり、映画に行ったり買い物をしたりということがごく当たり前にあって、それはいちいち親に報告する義務のないことだったのに。

 不要不急の外出が厳しく取り締まられる風潮になってから、今までほったらかしもいいところだった娘の外出に、親が介入するようになってきた。なぜ出かけるのか、相手は誰なのか、行先は安全なのか、それは絶対に行かなければならない用事なのか。

 「小学生じゃないんだから」と怒鳴って飛び出したい気持ちをとりあえず脇において、わたしは親を安心させるために、理由と行先を告げるようには務めた。が、本当のことを言ったのは三分の一くらいで、後は嘘とか、でっち上げだ。そうでもしないと、わたしの自由は守れなかった。自粛期間を経て、自炊なんかの家事も上手になったけど、嘘をつくこともまた、上手になったのだ。

 

 そんなふうに、親がわたしの行動に以前より介入するようになってきてから、都内に通う学生という身分の自由さを痛感した。わたしの日常は、世間的には不要不急な行動の寄せ集めで成り立っていて、しかし私にとってはすべて必要火急であった。無駄や徒労も含めて、出歩いて、人に会って、自分の気持ちの変化を感じることのどこが不要不急なんだろう。けれど、自分以外の誰かを説得できる大義名分を編み出すこともできず、悶々とその葛藤を抱えながら外出自粛期間を過ごした。再び感染者が増える今日もまた、あの鬱々とした日々を思い出してげんなりしている。

 わたしのほかにも、この葛藤を感じていた人はきっと多いと思う。「自分にとっては必要だけれど、世間からしてみたらこれは不要不急に当たるかもしれない」と、葛藤を抱えながら人に会っていたんじゃないかと思う。居酒屋で友人と話し込むところを直撃されている人のインタビューを連日眺めながら、だけど、彼らにとってはこれが必要だったんじゃないかと、想像する。人がやっていることを、他人が勝手に「不要不急」と指をさすことはできないはずだ。

 「多様」「個人」が一般的になった現代社会において、これほど多くの人が共通の課題に頭を悩ますことは、今後の人生の中で、あと数えるほどしかないだろう。そう思うとコロナ禍という現象はある意味興味深い。同じ物差しの上に置かれたことで、個人間の価値観の違いがはっきりした。仕事や学校なんかの社会的営みに覆い隠された人間の生活が、むき出しになった。他者への想像力はある方だという自負があったが、それが想像にとどまらず、現実味を帯びて目前に迫ってくる様子は、これから先、そう経験できることではないだろう。2020年は、確かに忌まわしい年でもあったけれど、そういう意味ではこれもまた人生に「必要」な年だったのだろうと受け止める。そう、私の人生に不要不急などないのだから。

 

 そんなこんなで、この目まぐるしい年は、今までの自分の日常とは思えない性質の一年間だった。通り過ぎる景色なんか見る暇もないまま、透明なパイプを一気に滑り降りるみたいにあっという間だった。そして着地した2021年、なんだか今までとはちょっと水質が違う世界に降り立ってしまった。ような気がする。

 

 この心境の変化には、個人的なライフイベントが大きくかかわっている。

 わたしは4月から長い長い学生生活に今度こそ別れを告げて、会社に勤める。業界研究などろくにしないまま、直感だけで選んだ会社(ドキュメンタリー番組制作会社)だ。務めた後のその先のこと、例えば結婚とか老後とか、そういうことは一切考えていなくて、文字通り「飛び込んだ」感じだ。そもそも、ダメ元のエントリーシートと採用面接だった。なぜ自分が採用されたのか自分でもわからない。し、そんな心持で仕事が務まるのかも自信がない。

 ともあれ、行き着いた場所である。これまでの乏しい人生経験を総括して、「ここかな」と思った着地点だ。社会のためとか家族のためというよりは、まずはこれまでの自分を後悔させないために、いろんなことを乗り切らなきゃいけない。

 この状況において思い出すのは、小学校の頃の図画工作の「白い画用紙」だ。小学生の頃、図画工作の時間に配られる白い画用紙が大嫌いだった。「書きたいものを自由に書いて」と言われたところで何もない。自分には自由な発想や独創性などないことや、自分の不器用さを痛いくらい感じて毎回いたたまれなくなった。

 わたしがこれからやろうとしていることはこれに似ているんじゃないかと思っている。新しく入る企業でどんな景色が見えるのか、どこへ行けるのか、誰と出会って、誰と親しくなれるのか。ここで何かしらの経験を得ることは、真っ白い画用紙に新しい世界の地図を描き、広げていくことなんだと、勝手に想像している。

 白い画用紙アレルギーはいまだに憎らしいほど健在で、新しい世界の地図、なんて言ってみたところで足がすくむだけ。そう、真っ白い画用紙は大嫌いだ。「でも、」と、その後にいつも呪文のように付け加える言葉がある。

 

 わたしは、真っ白い原稿用紙は大好きだ。言葉なら、文章なら、ちょっとは楽しく仕事ができる自信がある。負け惜しみかもしれないけど、大人になっていろんな人に会って、その人の癖とか個性、得手不得手を知って、何も「オール5」なんて目指すべき人間の姿じゃないことを知った。だから、わたしには画用紙を捨てる自由もある。もしかしたら原稿用紙になら、絵が描けるかもしれない。

 

 2020年の病魔を引きずったままの2021年が、どんな年になるのか、想像できるのは五輪中止の知らせ以外に何もない。そんな先行き不透明な未来でも、まだ生きようという意思は消えてない。ときに真剣に、ときにのらりくらり、きっとどうにか日々を続けていくだろう。

いつか、そんな毎日が、『悲しい時代でもぼくらは踊って過ごしたよ』と語れる人生の一部になりますように。

 

 

ゴッホ

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