金木犀の香りってググってもわかんないんだもん。


 押上の町、路地の中のごくごく客の少ない鉄板焼き屋で海鮮ミックスもんじゃを熱い鉄板の上におしひろげながら、彼は「え~、、うーん」と、唸っていた。

聞けば、巷でいうところの金木犀の香りがわからない、という。10月始め、姿は見えないのにやたら存在感のあるあのきつい香りを認知できないなんて、わたしには信じ難かった。秋ごろ重症化するタイプの花粉症であれば鼻炎で鼻が効かないことも考えられようが、そういうわけでもなさそうだ。
 今年の金木犀のピークはすっかり過ぎ去ってしまったので時すでに遅し。じゃあ来年にはどこか公園にでも一緒に行って、いやというほど金木犀をレクチャーしてあげようとおもった。箱にたくさん詰めて郵便でも送ろうかとも。

金木犀の香りってググってもわかんないんだもん。」

と、彼が言ったのが可笑しくて笑ったあと、Googleに占拠されていない世界がまだあることを知ってわたしは嬉しくなった。
確かに香りの情報はいくら言葉を尽くして説明されても、直接体感しないことには納得できない。そうか、まだまだGoogleをつかってもわからないことがあるんだ。

 「現代の社会、とりわけ資本主義は、例えば人がコーラを飲みたいと思ったときにすぐにそれが用意される社会を志向している」

 社会学の先生が言っていたことを思い出す。そんなテレパシーみたいな世界はありえないと18のわたしは冷笑したものだが、先生が言っていたことは間違っていなかったと思う。 

 大学生になってインターネットを使いこなすようになり、行動範囲も広がって、資本主義の怪物や亡霊が潜むと噂の東京へ足繁く通うようになった。そんな中で自分の欲望が先読みされたかのような体験もしたし、「これがあるならあれもほしい、これもそれも要る。必須というわけではないけどもあった方が絶対にいい」みたいに、一つの欲求が他の欲求を誘発することも経験した。

 ふと冷静になってみると、これまでの自分の選択の数々は、自分で選んでいると思いながら、実はそれは様々な消費主義的戦略によって選ばされていた。Googleはその欲望づくりに一役買っていると考えて間違いないだろう。Googleはわたしの誕生日やカード番号、趣味嗜好、よく見るサイト、最近のマイブーム、友達の顔写真や名前、いろいろなものを「知っている」。Googleにとって「知っている」ことがどんな有益な機能を果たすかは別として、ひとまずのところGoogleはわたしの個人情報を恋人や家族よりも正確に、リアルタイムに把握し続けている。

その膨大なデータからはじき出された結果が、日々ネットに出てくる広告だ。自分の欲望を見透かされているような内容が出てくることもあり、正直怖い。一方で、「知らなかった!」「こういうのほしいと思ってた」などと、その広告に救われることもある。ビッグデータは、人を消費へと駆り立てる資本主義の優秀な右腕だ。

 
 資本主義が人を幸せにするならわたしはいっこうにかまわない。事実、お金は人を差別しない(社会的差別によってお金が手に入らないことはあるけども、お金そのものが人を差別することはない。また、資本主義であればお金さえ払えば階級にかかわらず良質共に金額に見合うだけの財やサービスを受け取ることができる仕組みにはなっている。繰り返し注釈するが、それが手に入る社会資本・文化資本を持ち合わせているかはまた別の話だ)


 ただ、そうなったとき―情報が欲求を先回りし、人々の欲望を形作るようになったとき―に私が最も恐れているのは、人のクリエイティビティや、無知の中で何かしようとあがく力が失われてしまうことだ。

 強大なパワーを持つ資本主義の中で人は、その流れを止めないよう働き、消費し消費される。オリジナリティやエゴや個性は生きづらさ。そんなものはとっとと捨て去り、さっさと資本主義の歯車に乗ってしまったほうがよっぽど生きやすい。昨今の資本主義はさらに一歩進んで、オリジナリティやエゴや個性も「多様性」の名のもとにそれすらも洗い流そうとしている。さて、どこまでも私たちを逃してくれない人類の発明に、立ち向かうことはできるんだろうか。



金木犀の香りってググっても分かんないんだもん」

 

友人がぽつんとこぼしたこの言葉が、わたしは大好きなのと同時に、こういうところに資本主義に立ち向かう方法が隠れているように思う。嗅覚、味覚や触覚など、文字と画像だけではフォローできない情報(いずれそれらも調べられるようになる気がするが…)を見つけていくことは、最も簡単なテクノロジーへの抵抗だ。

―これだけだと少し原始的だし広がりがないので、例のつぶやきの中の「わからない」という言葉に注目して論をもっと遠くへ放り投げてみよう。

 

資本主義×情報社会では、ほしいものがほとんど手に入る。すぐに手に入る。わからないことがすぐにわかるようになる。

そんな便利な世界で生まれる自分の「わからない」「知らない」を、もっと大切にした方がいい。「わからない」という感覚は、最も身の丈に合ったリアリティを持っているからだ。

そして、後はその「わからなさ」をひたすら埋めていく作業の繰り返しである。自分の記憶、経験やふと見た夢や、人間関係を総動員して考える。考えた結果、正解を突き止めたとして、それが正しいかどうかは、どうでもいい。本当に自分で考えたことならば、他に参照できるものなどあるはずもなく、答え合わせの必要がないからだ。(こうして生まれる個々人の差異こそ、私は、多様性と呼ぶべきものなのではないかと思うのだ。)

 

そんなことができたらようやく、人間になれたと思えるだろう。

そしてそれはきっとこの社会において「何者かになる」ことよりも、ずっと難しい。