夏のいいなり

「夏っていうだけとっても楽しい気もちになって、本当は別になにもしてないのに、なにかをした気になっちゃうから、夏ってほんとに危ないと思う。」

スーパーで買ったオレンジジュースを担いで帰る帰り道、わたしのかわいい友達が、はしゃぎ気味の声でいった。

よく見たら彼女が着ているのはパイナップル柄の薄手のブラウスで、それだけでもう、夏を楽しみにしているのがわかるくらいだった。

空に浮かんだ分厚い雲の城の向こうに太陽はまだ隠れていて、真夏の日に燦然と降らせるシャワーを蓄えているに違いない。湿気を含んだ空気がだるさになって手足に絡みつき、頭のどこかに寄生して眠気を誘う。わたしは自分の体がそういう状態になると、ああほんとうに夏が体に沁みてきたなという気持ちになる。

 

夏の、全てを「特別」に変えてしまうパワーの正体は何だろう。

まさかこんなに大人になっても「夏休み」にわくわくしているのだろうか。

子どもの頃に経験した夏の非日常的な経験が遺伝子レベルで刷り込まれていて、夏の匂いを嗅ぐと何となく、わくわくしてしまう、とか?

 

そうでなくても、夏が現実離れした色に染め上げられているのは確かだ。

嘘みたいにまぶしい日差しを跳ね返す緑。

声は聞こえるのにその姿はなかなか見つからない蝉。

きらきら光る氷菓子。

明るいうちから一杯やろうぜと誘いかけるような夕方。

夏は人をだます罠をたくさん仕掛けてわたしたちを惑わす。

 

夏の頃の思い切り現実離れした舞台と言えば、お祭りをおいてほかに考えられないとわたしは思う。

着るものからお化粧までいつもの自分とは全然違う。指先への力の入り方だって頸の伸ばし方だっていつもよりちょっぴりしゃんとする。「お祭りだから」という理由でいつも下手にいじらない髪を巻いてみたりとかして、そんなふうに浮かれることを許されるのが「お祭り」だった。

着飾るのは町も同じで、いろんな屋台が出ていて、電柱伝いに赤い提灯がつるされている。食べるものも、夏の夜の空気と一緒にたべる屋台飯は別格。

人込みは嫌いだけど、何もかもがこの日のためにある、というような祭りの日が好きだった。

 

今までで一番楽しかったお祭りは、川越まつりだ。

季節的には10月なので夏祭りとは言えないが、とにかく派手で気風がいい。

日中は、どこからか笛の音や太鼓の音が聞こえたり、獅子舞が躍る見世物屋台のようなものを見かけたりする。暮れなずむ空に合わせて街全体がぼんやりと宙に浮いていくかのように現実から乖離して、「祭り」の熱を帯び始める。

川越祭りでは多くの山車が行列を成して道を行き来し、交差点で鉢合わせすると掛け声とともに競り合う。(決着がどうなのか、あらかじめ決められているのか、よそからふらっと来ただけのわたしにはわからなかった。)

とにかく人が多くて、けがやけんかや事故が起きるということも容易に想像できる現場なのに、そこにいる誰しもが全く当然というように楽器を鳴らしたり怒鳴ったりしていてた。「理屈とかはどうでもいい」みたいな思い切りの良さが、実はハレの日には一番大切だということを知ったのだ。

 

 

そんな祭りも、今年は何もかも見込めない。

ささやかなバーベキューだってデイキャンプだって叶わない。

それでも来てしまった夏を、わたしはどう受け入れればいいのだろう。

  

8月1日ぴったりに梅雨が明けて、その途端空にはすっかりたくさんの入道雲が建立された。こんなにわかりやすい季節の変わり目がいままであっただろうかと苦笑したくなるほど。何週間かぶりに顔を見せた太陽は、その長い休暇中に蓄えたエネルギーを唐突に振りまき始めた。予想していた通りだった。

 

母とスーパーに買い物に行く途中に目に留まったセミの抜け殻を見つけた。

「夏って感じがするねえ、こんな時でも季節は進むよね。そりゃ当然のことだけど、妙に安心しちゃうなあ」と母がしみじみと言った。

こんな世界に狼狽えているのは人間だけなんだということを、夏の日差しの中に揺られて気づく。

 

そんな日差しの中にいて、わたしはいくつかのことを思い浮かべる。

カルピスを飲もう。アイスティーにはレモンを浮かべよう。祖父母の家で採れた梅で仕込んだ梅ジュースも、たくさん、たくさん飲もう。桃には丸ごとかじりつこう、水族館に行こう。普段聞かない音楽を聞いてみよう。昨年買った服を丁寧に着まわそう。

そうすればきっとわたしの体にはいい夏を呼び込める。

わたしは今年、夏のいいなりにはならない。

 

 

 

 

 

恋だの愛だの

 

 

 

自粛期間空虚に過ごす中で、何に対しても興味を失っていった。5月ごろだったと思うけど、あの時が一番しんどかった。

私はとても人が好きだし、人を好きになるために生きているし、人間関係をはじめたらいずれその人を好きになることがゴールだと思って接する。あわよくば私のことも好きになってほしいし、虜にしたい気持ちだって無きにしも非ず。

そんな無類の人たらしであるが故、「人と会うな!」という自粛期間は、本当に苦しいものだった。この「人を好きになりた~い!仲良くなりた~い!」という気持ちを、面接官にしか向けることができなかった(筆者は絶賛就活中である)。

 

なんでこんなに人が好きなのか、今まで自分は考えたこともなかった。

というかこれが普通だと思っていたんだけどだんだん「あら?これは人と違うのでは?」と感じ始めたのだが、実のところどうなのだろう。

高校生の頃は死ぬほど人が嫌いだったし、好きな人の幅は超狭かった。

恋愛対象として好きな人はいなかった。同じ部活の女の子たちしか信用していなかった。

それ以外はほぼ敵とみなしていて、クラスでできた友達はいなかった。移動教室はあたりまえに一人だし、ペアつくるタイプの授業とか悲惨で思い出したくもない。

というか思い出せないから多分、辛すぎてなかったことになってる。

 

そんなこんなで人付き合いに自信が皆無だったわけだが、どういうわけか今では人が大好きだ。それは大学の社会学の授業で、質的調査という調査方法に出会ったことが大きなきっかけだったのではないかと思う。

簡単に言うとインタビュー調査のことで、人に話を聞く調査手法のことだ。わたし自身もそれを使ってちょっとだけ調査めいたことをやってみたりもした。出会う人たちはそれはそれは豊かに自分のフィールドについて語ってくださる。その瞬間の人というのは真剣できらっとしていて、とても美しかった。

 

教授も同じだ。とても偏屈で頑固そうな教授が、自分の好きな専門分野のことについて話している姿は、それはそれはセクシーだった。教員になりたての教授なんかは教えたいことが山ほどある感じで隙あらばいろんな概念を引きずり出してきたけど、そういう知的な自慢を聞いているのも嫌じゃなかった。

(でも逆にこっちの要望を聞こうとしてくるタイプの教授にはあまり惹かれなかったな。)

 

大学2年生の時にギャラリーに頻繁に通っていた頃、たくさんのアーティストに出会った。彼らは好奇心にいつもキラキラしていた。

話しかけると、自分の作品のことについて語ったり語ってくれなかったりして、そんなミステリアスさもまとめて大好きになった。みんな、独自の知性に従ってマップを編んでいるかのようで、私はいつもそういう話を聞くのが好きでたまらなかった。

彼らに共通しているのは人に見せるものについて真剣に考えていること、自分がその表現をする必然性をかみしめているところ。言葉少ななアーティストもたくさんいた。でも、作品のメンテナンスとかしているまなざしが真剣でそれはそれはセクシーだった。

 

私はこういう人たちから「その人にしか語り得ない物語」を聞くのが好きだったのだ。

 

当然のことながら、人は全員歩んできた人生が違うから、どんな人も「その人にしか語り得ない物語」を持っている。そんな話をするときの人は飛び切りチャーミングで、「唯一無二感」がして無敵だ。そんな人の姿に私はころんと惚れ込んでしまう。

高校まではなんとなく学校制度の中で生かされていて、自分を客体化して話す機会がなかったから、「自分の物語」を語れる人がいなかっただけなのだろう。きっと今あったら楽しい人たちばかりだろうとも思う。

 

ちなみに好きになるといったって、みんながみんな恋愛対象になるわけではもちろんなく、単に一緒にいて居心地がいいとか、その人を見てわくわくするとか、声だけ好きとか、そういうことも全部「好き」に含んでしまう。相手の、何かきらっと光るところを捕まえたなら、私にとってそれはその人を「好きになった」ことになる。その「好き」に男の子も女の子もあまり関係ない。

 

ツイッターを見てくれてる人から「大人の恋愛してるんだと思ってました」とか「恋多き女って感じ」などというありがたーい感想をいただくことがある。もしかしたらそうかもしれないし、そうではないかもしれない。博愛主義。ヒューマニスト。人たらし。…ポリアモリーに到達するまではまだちょっと器が足らない。

とはいえ私の人付き合いのベースには「惚れこむこと」という大きなテーマがあるというのは事実。見方によってはそれは常に恋をしているようにも見えるかもしれない。

 

こんな私の態度が一体何人を困らせたかわからない。魔性と言いたいわけじゃないんだけど、心当たりのある方々、本当にごめんなさいね。こういう人付き合いの仕方は同時に痛みを伴うものでもあったことを、今ではちょっと反省している。

 

けどまあ…

もっと恋だの愛だのから自由になりたい世の中になってきたんじゃないかしら。

 

 

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久しぶりのブログ。

自粛期間、始まってすぐはしんどかったけどだいぶ慣れてもう一周回った感がある今日この頃。これからまた感染者が増えても「ああまたかー」ってやり過ごせそう。4月8日で止まった学生定期だけちょっと悲しいっていうか、「アー学生の特権不意にしたあ」って感じでげんなりだけど、でも今はほんとそれだけ。

 

別にこのブログ何かに向かって書いてるってわけでもないんだけど、想定できる読者様が何名かいる手前、ちょっと書きづらくなってきた。

…が!ブログなんて恥を売ってこそでは?と囁く自分も居たりして。

なんかまあそういうものとして以後お見知りおきを。と吹っ切れました。

 

 

 

 

 

 

玉子焼き

随分妄想過多な文章が出てきたのでこれも供養っと。

 

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わたしが、たまごを食べられなくなったのは、中学生のころだった。ウズラのたまごを口に含んで、そこでひなを孵すという悪趣味な夢を見た。その夢のせいで、わたしはたまごを口にすることができなくなった。

 結婚して家を出て、自分で料理をするようになってからも、卵料理だけはつくろうという気持ちになれないでいるのだが、ある日突然、旦那が「玉子焼きが食べたい」と言い出したのだ。独特の箸の持ち方で、鯵のひらきの身をほぐしながら。

 彼の箸の持ち方は、どうにも不器用に、幼く見える。彼と出会ったのはお互いに大学生のころだったのだが、その頃からこの癖は変わらない。二十歳を過ぎても変えられないものを変えるのには多大な労力を要するので、最初はよくからかったが、もう注意しなくなった。むしろ、そんな持ち方でよく食べられるな、などと感心しつつ、観察するようになった。

「玉子焼き、作ったことがないの」

「じゃあ、俺が作るよ」

 玉子焼きには、少し苦い思い出がある。

母が作るお弁当には、いつも玉子焼きが入っていた。あの悪夢を見るまでは、わたしは何の抵抗もなくそれを食べたものだった。優しい色合いの玉子焼きは、お弁当の中に行儀よく収まっているだけでちゃんと映えた。母が作る玉子焼きは、決まって、いつも甘い。時々、青のりが入ったものや、カニカマを投入してくることがあったが、私と妹が痛烈に非難したために、作られなくなった。そのあと、わたしは卵焼き自体を拒絶するようになったのだけれど。

 初めてわたしが玉子焼きを残して帰った日、お弁当を見て、母は、「おいしくなかった?」とわたしに訊いた。

 てっきり、食べ物を残したことを怒られると思っていたのだが、罪悪感のほうがずっと勝った。そのときの母の情けない声音を思い出すだけで、今でも胸がいっぱいになる。

旦那に自分の料理をふるまうようになってから、ようやくその寂しさがわかるようになった。幸い、わたしの旦那は、わたしが作るものをなんでも食べてくれる。例の子どもっぽい箸の持ち方で。育ち盛りの少年みたいな食べっぷりは、見ていて気持ちがいいくらいだ。しかし、いつか、どこかのタイミングで、彼が私の料理を食べなくなってしまったらと思うと、それはたまらなく悲しい。悲しくて、寂しい。

 翌日、わたしがアラーム音で目を覚ますと、すでに隣に旦那の姿はなかった。台所へ行ってみると、旦那が妙な寝癖をつけたまま、カチャカチャと軽快な音を立てて卵を泡立てていた。

 台所に立つその後姿が、母の背中と重なって、泣きそうになった自分に驚いた。似たところなど、一つもないはずなのに。玉子焼きのせいで、センチメンタルになっているのかもしれない。

 カーテンもあけず、しんとしたリビングの真ん中のキッチンで、母の頭の上の電球だけついている。たまたま早く目が覚めてしまった日に水を求めて台所に行くと、決まってそういう光景があった。チチッと、やかんを火にかける音、みそ汁に入れるねぎを刻む音。それはまるで秘密の儀式みたいで、幼いわたしを魅了したものだった。母は、振り返って言う。目、覚めちゃったの。まだ早いから寝てきたら。ううん、もう眠くない。そう。

 母は、わたしにグラス一杯のオレンジジュースをくれる。早起きできたいい子にはご褒美をあげます、と。

「おはよう」

彼は、まだ少し眠そうな顔をこちらに向けて言った。

玉子焼き一つ作るのに、五時半から起きる彼の気合の入れように、不意に笑いがこみ上げてくる。

「なんで、笑うの」

「卵焼き一つで、こんなに早く起きるなんて…寝癖も直さないで」

「そんなにひどい寝ぐせついてる?」

「現代美術みたいだよ」

つられて彼も笑うので、それまで軽快に鳴っていた菜箸の音が少し乱れた。きれいに割れた卵の殻がふたつぶん、流しに捨ててある。わたしの手には少し長い菜箸も、彼の手にはちょうど良く見える。きれいに整った手の形を見ておや、と思う。菜箸は普通に持てるようだ。

「言ってなかったけど、俺、玉子焼きにかけてはプロだよ」

「どうして」

「当番だったから」

「玉子焼きの当番?」

「そう。夏休みの宿題でご飯を作る宿題が出た時に母さんから教わったの」

 彼の言うことは、どこまでが本当でどこからが冗談なのかがよくわからない。

 彼は冷蔵庫から白だしを出して、きっちり軽量スプーンで量った分を卵液に投入した。彼がこれをやるとなぜか急に、「料理」が「実験」の様相を呈する。

「しょっぱいやつなんだね」

「お砂糖も入れるよ」

 そういって、彼は山もりの砂糖を加えた。そのほかに、みりんがくわえられる。単なる玉子焼きというよりは、だし巻き玉子のようだ。

 彼は意外に慣れた手つきでフライパンを火にかけて、うすく油を敷いた。じゅうっといい音がして、フライパンはたちまち黄色の海になる。ふくふくと波打って、やがて一枚の布が出来上がった。彼はその薄黄色の絨毯を器用にたたんでいく。空いたところに再び卵液を流しいれ、それもまた丁寧に巻いていく。そんな手順を繰り返すあいだ、彼のその手つきには迷いも狂いもなかった。

 焼きあがって、甘い湯気を立ち上らせる金塊に似た姿の玉子焼きは、無事にフライパンから引き揚げられ、まな板に乗せられた。つやつやとやさしい黄色は、わたしの記憶の中の玉子焼きよりも一回り大きい。

「俺の母さんは昼の料理番組でやってるやつをその日の夕飯にするような人だったんだ。だから、おふくろの味ってあんまりぴんと来なくて」

 彼が玉子焼きに包丁を入ると、きれいに層になった断面が現れた。

優しい玉子焼きのにおいが朝の台所をいっぱいに満たしている。玉子が、こんなにうっとりと優しい匂いだったなんて知らなかった。深くやわらかいものに抱かれているみたいな心地。

「でも、玉子焼きだけは、いつもちゃんとおんなじ味がしてさ。だから、唯一これが、俺にとってのおふくろの味ってわけ」

 彼が一切れの玉子焼きを菜箸でつまんで私の口もとによせた。

「食べてみて」

口に含むと、まずやわらかい歯ざわりに驚く。たまごのふくよかな風味が砂糖の甘味に乗っかって、ほわっと口いっぱいに広がった。わたしが嫌厭している半生の触感も生臭さも感じられない。

 その人が作り出す味を味わうということは、その人の人生や経験を垣間見ることだ。この玉子焼きは、彼が十分に愛情を受けて育てられてきたことを証明する味をしている。彼の優しさや包容力の理由がはっきり分かる。

「おいしい?」

 わたしがうなずくと、彼は嬉しそうに笑った。

おいしいなんてもんじゃ足りないくらいだ。味覚以外の感覚も、ぜんぶ、優しさに包まれるような心地だった。

「うん、おいしい、おいしいね」

 中学の悪夢以来、たまごを全面的に拒否してきた。二十歳を過ぎても変えられないものを変えるなんて、到底無理だと思っていたのに、こんなにもたやすく変えられてしまうとは。

 それまで全くの他人だった者同士が出会って、それまでの人生を、見せあったり交換したりする。そこで編まれるのは、今までの自分じゃ想像できなかったような新しい物語だ。変わらないとあきらめていたことが、その物語の中では、変わる。わたしは2つ目の玉子焼きに手を伸ばした。

「ねえ、菜箸はちゃんと持てるのに、どうして普通のお箸は持てないの」

「ああ…今、すっごく気をつけてるんだよ。昨日魚食べてるとき、俺の手元ずっと見てたでしょ。なんか恥ずかしくなって。これから少しずつ直していこうかなって」

「ん」

 時計を見ると、時間はまだ6時になったばかりだ。もう間もなく玉子焼きの匂いはみそ汁とご飯の匂いに変わるだろう。

だけど、まだもう少し、この匂いの中に居たかった。

 

 

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たまごが嫌いになった理由は、本当。

 

 

 

 

 

 

林檎

 

無駄なファイルを消そうとパソコンをいじっていたらこのような物語が出てきたのでここでこっそり供養しますね。

 

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その日は、秋のようにすっきりとした青空で、春の日のように心地よい風がそよいでいた。夏のように木漏れ日がまぶしく、冬のように空気が澄んでもいた。それぞれの季節の良いところを少しずつきりとって一つの日のなかにギュッと閉じ込めたような、魔法のようにすてきな日だった。

天使の子が、大きな木の上で翼を休めていると、青々と茂った草の陰に、ぴかぴか光る赤い林檎の実が転がっているのを見つけた。あんまり美しかったので、天使は、それを家に持って帰ろうと決めた。

天使は、林檎のもとへ舞い降りて、そのそばに寝そべった。生い茂る野草と同じ目線から林檎を眺めていると、大きな木の葉っぱのすき間からこぼれた光が、真っ赤な林檎の表皮に照り輝いて、不思議な模様を描き出すのがよく分かった。目に入る世界の何もかもが美しく、翼を洗う風もきらきらと心地よく輝いた。

天使が、そんな美しい世界の真ん中でまどろんでいると、突然、ばっと視界が黒い影の中に沈んだ。それまで輝いていた林檎の輝きも、一瞬で失われた。

大きな翼を広げたからすのような風貌の悪魔の子が、天使の真上で羽ばたいていたのだ。

「その林檎を渡してもらおうか」

悪魔の少年は横柄な口ぶりで言った。天使は、その爪の鋭く伸びたきたならしい手に、こんなも美しく光る林檎が触れることが許せなかった。

「いやだよ、僕が先に見つけたんだもの」

天使はそういい張って、林檎を胸に抱きかかえた。

「その林檎を落としたのは、俺のお父さんなんだ。だから、その林檎は俺のものだ」

悪魔はそういう理屈で、天使の手から林檎を奪おうとした。

「こんなところに置きっぱなしにしておくのが悪いよ。どうしてすぐに取り返しに来なかったのさ」

「どこに行ったのかわからなかったんだ。今日まで、ずっと探してた。返せよ」

 悪魔がそういっても、天使はぷっとふくれっ面のまま応じない。

悪魔は思った。ははあ、天使のやつ、きっとお腹がすいているんだな。だからこんなに必死に林檎を欲しがるんだ。

「そんなにこいつが欲しいなら、半分に割って、わけあおうじゃないか」

しかし天使は、胸の中の林檎を一層強く抱きしめてその提案にも首を横に振った。

天使にとっては、傷一つない美しい林檎であることが大事なのだ。これが真っ二つにされてしまったら、その美しさも半分になってしまう。天使にはそれが許せない。

「いやだよ。ぼくは、これを丸ごと一つじゃなくちゃ、やだ」

そういって翼を羽ばたかせ、逃げようとした天使を、悪魔はすかさず捕まえた

捕らえられた拍子に、天使の手から林檎が滑り落ちた。それを、あとからやってきた人間の少年が拾い上げた。

「その林檎は、僕のなんだ。お願い、返して」

「違う、それは俺の林檎だ」

 天使と悪魔が必死の表情で手を差し出すので、少年は困惑した。

もし天使の味方をしたら、悪魔に恨まれて呪われてしまうかもしれないし、かといって悪魔の見方をしたら、天使に恨まれて、永遠に幸運を授けてもらえないかもしれない。

少年は必死に頭を働かせて、ある名案を思いついた。

「じゃあ、賭けをして勝ったほうがこの林檎を手に入れるっていうのはどう?僕が審判をやるよ」

 少年は、片手でぽんぽんと林檎を弾ませながら言った。本当は、少年はのどが渇いていたので、その林檎をどちらにも渡したくなかった。あわよくば、自分のものにしてしまおうと思ったのだ。

 少年は、大きな木にとまっている一羽の鳥の姿を見つけた。

「あそこに、鳥がいるだろう。あの鳥が、どっちへ飛ぶか、賭けをしよう」

「ぼくは、東側に賭ける」天使が言った。

「じゃあ、おれは西側に賭ける」と、悪魔。

「そのどちらでもなければ、この林檎はぼくがもらおう」

 人間の少年の言葉に、天使も悪魔も驚いて、それは違うよ!と、少年につかみかかった。その大きな声に、木の小鳥は驚いて飛び去ってしまった。

天使と悪魔は、「今の、どっち?」と声をそろえて聞いた。

しかし、審判である少年は、天使と悪魔がいきなりとびかかってきたので、その小鳥の行方を見逃してしまっていた。

「俺の味方になってくれたら、林檎を半分やるよ」

 悪魔が、こっそり少年に耳打ちした。少年は、ひどくのどが渇いていたので、その誘いには、心が揺らいだ。

「ええと、今、小鳥は…」

少年が、西側、といいかけたとき、そこを通りかかった一匹の犬が、東側じゃなかった?といいだした。

「なんの賭けをしてるのか知らないけど、鳥は、時計台のある東側へ飛んでいったようにみえたよ」

 毛が伸び放題で、モップのような見た目のその犬は、長く伸びた毛のすき間から、賢そうな目をきょろきょろさせて言う。

「そんなことない、西だね」

 悪魔は、断固とした口調で宣言した。少年は、林檎をどうしても食べたいの思うあまり、つい、悪魔の見方をした。

「ぼくも、西だったと思う…」

 それを聞いた犬は、牙を見せて少しうなった。犬は、ちっともかわいげのない見た目のせいで、子どもたちからひどいいじめをうけていたのだ。だから、人間のことが大嫌いだった。人間の少年が悪魔の味方をするなら、自分は天使の味方をしてやろう、と思ったのだ。

「いいや、東!」

 犬は、のどの奥でウウーっとうなりながらいった。

 

 

もう、だれが何のためにあらそっているのかわからなくなってしまった。

天使は、美しかった白い羽根を、悪魔にも人間の少年にも犬にも千切られた。悪魔は、鋭くとがった爪を踏みにじられ、こうもりのような羽も、お化け屋敷のカーテンみたいにひどい有様に破かれてしまった。

少年の体中には犬の牙の跡が残り、悪魔が触れたところには呪いがかかって、ずきずきと痛んだ。少年に羽をむしられた天使は彼を恨み、もう一生幸福を授けないぞ、と声高に叫んだ。老いた犬は蹴飛ばされたり、長く伸びた毛を乱暴に引っ張られたりした。

もう、何もかもめちゃくちゃなけんかだった。

そんなふうに、取っ組み合ったり、口汚くののしりあったりするみんなの真ん中にいる林檎は、そういう醜い争いに嫌気がさしたのか、何かの拍子にくるるっと転がり出した。

「ああ、待って!」

みんなが、おんなじことを叫んで、林檎めがけて突進した。傷だらけの徒競走だ。

林檎は、後からついてくる三人と一匹がよほどおかしいのか、けらけら笑っているかのように愉快に弾んで、元気よく転がっていく。

先回りしようとした天使の足首を、悪魔はつかんで離さないし、人間の少年は前に出ようとした犬の足を引っかけて邪魔をして、一緒になって転がった。

林檎はどんどん遠ざかってゆく。

みんな、お互いの足を引っ張ったり、引っかけたりしながら、「こんなことをしている場合じゃない」と知っていた。

けれどそれとおんなじくらい強く、「こうでもしないと誰かに林檎を取られてしまう」と思っていた。

みんなの目線の先で、ぽおんと林檎が大きく跳ねたと思ったら、その先の地面の裂け目に、真っ逆さまに落ちていった。

「あーっ!」

みんなは、割れた地面を覗き込んだ地面の裂け目からは、ひょうひょうと風が吹き抜ける音だけがむなしく鳴っている。真っ暗で底が見えないので、誰もその崖を降りて林檎をとりに行くことはできなかった。

「……最終的に、林檎を手に入れたのは、地面だったね」

 人間の少年は、どうにかみんなが納得できるような結末の文句を考えて、ぽつりとつぶやいた。天使も悪魔も犬も、黙ってうなずいたけれど、だれも納得していなかった。

 みんな、本当は思っていた。 

あんなにけんかしたのに、待っていた結末が、これ?

「……痛いなあ。あ、この傷、悪魔のやつがひっかいたんだ」

長い沈黙の後、天使は、ミルクのように真っ白い腕に浮かんだ一筋の赤い血を、手の甲でぬぐいながらいった。

「こっちだって、羽を引き裂かれたさ。もう一生飛べないかもしれないぞ」

 悪魔はそういって、天使をにらみつけた。その目の上にも大きなたんこぶができて、その鋭いまなざしにはいっそうすごみがあった。

「そんなことより、僕にかけた呪いを解いてよ、あちこち痛いんだ」

「誰かな、あんなにさんざん、わたしのしっぽを踏んだのは!」

犬は、薄汚れた毛がぐしゃぐしゃになっていて、乱暴にぐるぐる巻きにした毛糸玉のようなかっこうになっていた。

みんな、自分がどれくらいつらくて苦しかったか、言い争った。でも、誰も謝ろうとはしなかったし、誰のことも許そうしなかった。慰めようともしなかった。   

ついにしびれを切らした人間の少年が、声高に叫んだ。

「もういい、みんな大嫌いだ!」

 

 

一人残された天使は、傷だらけの羽を伏せたまま、一人で泣いた。あんなにきれいだった林檎が争いを招いたことが、悲しくて泣いた。

 悪魔は、傷だらけの羽を引きずって歩きながら泣いた。自分の父が持っていたものを取り返せなかったふがいなさに泣いた。

 人間の少年は、悪魔にも天使にも嫌われてしまったことが悲しくて泣いた。二人のことを大嫌いだといってしまったことも悲しくて泣いた。

 老いた犬は、体のあちこちが痛くて泣いた。よく考えると、自分がなぜあんな争いに巻き込まれてしまったのかわからなかった。残ったのは、傷ついてさらにみすぼらしくなってしまった身体だけ。それがむなしくて、よけいに涙が止まらなかった。

 

 けんかのあとも、日々は続いた。ふつうの日々を送っているうちに、崖の中に落ちていった林檎のことなんかみんな忘れてしまった。

しかし、林檎のことを忘れても、けんかしたとき痛みや傷を忘れたことにはならなかった。むしろ、その痛みや傷は、長い時間をかけて発酵し、それぞれの心にしっかりと根を張ってしまった。

「ねえ、ぼうや。この傷どうしたの。ただのけんかの傷じゃなさそうね」

 少年の体の傷がなかなか良くならないのを心配した少年のお母さんがいった、少年の背中には、暗くよどんだ赤茶色の傷が残っていた、それは、悪魔のひっかいたところだから、呪いのようにじりじりといつまでも痛むのだった。治る気配はなかった。

「これね、悪魔にひっかかれた傷だよ。もう、一生消えないかもしれない…」

「まあ、なんてことするんでしょうね、悪魔というのは!」

「悪魔だけじゃないんだ。犬や天使も、ひどいんだよ。殴ったり、かみついたり」

「まあ、なんてひどいの」

 少年のお母さんは、自分の子どもを傷つけられ、天使や悪魔、犬のことを恨み始めた。お母さんは、それまで家に飾ってあった天使の絵を全部しまい込んだ。

 

 

 天使は、友達の天使に愚痴をこぼしていた。

「ぼくら、人間に愛されてると思ってたけど、全然そんなことなかったんだ。みて、この傷。人間の男の子にやられたんだ…」 

 天使は、頬にできた傷をさすりながら言った、天使の友達は、人間のことを許せない、と思った。

「それにね、犬だって噛みついたんだ」

「もう、誰のことも天国に連れていくのなんてやめちゃおうか」

「もうそんな人間や犬なんかに、幸せなんか授けなくっていいよね」

「うん、いいよね」

 

犬も、自分が受けた仕打ちのことを親戚のみんなに話して回った。犬の親せきは、みんな、それはひどいねと犬に同情し、人間は悪いやつだと言い合った。そのうち、犬たちは今までどれだけ自分たちが人間に働かされてきたかを語り合うようになった。そして、やっぱり人間は、地球で最悪の生き物だと思うようになった。

 

悪魔は林檎を取り返せなかったことを、お父さんに謝りに行った。

黒檀のぴかぴか光る大きな椅子に腰かけて呪いの書を呼んでいた悪魔のお父さんは、何も言わずに、傷ついた悪魔の翼をちらっと見て、ため息をついた。

「そんな奴らに負けて、どうする」

 悪魔は、細い肩をさらに小さく縮めて、ごめんなさいと謝った。恥ずかしさと情けなさにたまらなくなって、お父さんの前から逃げるように全速力で走って、姿を消した。

天使や人間や犬がいなければ、お父さんにほめてもらえたのかもしれないと思うと、みんなを呪う気持ちは一層強くなった。悪魔は、もう世界のすべてを呪ってやる、と思った。 

自分でも気づかないうちに、頬には涙が伝っていた。悪魔はそれをぐいっとぬぐったが、涙はあとからあとからこぼれてきた。通りかかった年上の悪魔がそれを見つけ、

「泣くなんて、悪魔の恥さらしだぞ!」とからかっていった。

この瞬間に、自分と同じ悪魔たちのことも大嫌いだと思うようになった。いや、もしかしたら自分が、本当は悪魔ではないのかもしれないと疑うようになった。暗い色の濃い影が、信じられないくらい冷たい影が、悪魔をとらえて離さなかった。

悪魔は、ほんとうのほんとうに、独りぼっちだった。

 

こんなふうにして、けんかの話は、いろんな人を巻き込んで、どんどん大きくなっていった。林檎の取り合いでじっさいにけんかした天使と悪魔と少年と犬だけの問題ではなくなってしまった。  

人間たちは、天使も悪魔も信じなくなった。犬たちだって、人間の言うことを聞かなくなった。お互いにつんと澄まして、ちょっとでも気に入らないことがあると、蟻のささやきをライオンの雄叫びにするくらいの勢いで騒ぎ立てた。

みんな、お互いに相手の失敗を虎視眈々と狙っていて、ほんの少し失敗すると、ここぞとばかりに、いろんな方法で攻撃した。

そんな窮屈な世界が出来上がってしまった。そんな揚げ足取りをしても意味がないことに誰も気がつかないまま、長い時間がたった。 

 

天使が治りかけの白い翼を羽ばたかせ、うすい水色の空をすべっていたとき、地面の裂け目からのぞく緑色の葉が目にとまった。それは、まるで地面がエメラルドをくわえているみたいに、不思議な眺めだったのだ。

 そこへ舞い降りた天使は、林檎が落ちていったあの場所だと気づいた。そして、地面から生えているこの葉っぱがまぎれもなく林檎の葉っぱだということにも気づいた。 

天使は、その緑の前にひざまずいて、一生懸命祈った。

お願い、みんなに、ひとつずつでいいの。あの日、もっとたくさん林檎があったなら、きっとけんかにはならなかった…。

ぶくぶくっ、ぶくぶくっ

 まるであわが膨れるように、木は葉っぱを茂らせて、背を伸ばした。天使は、それに励まされ、つよくつよく祈った。

お願い、お願い。けんかしながら、ほんとうはこの日を待っていたのかもしれない。一つを奪い合うことが、ばかみたいにおもえちゃうような…。

ぶくぶくっ……ぶわっ

林檎の木は、ぐんと背を伸ばし、あっという間に天使の背丈を二倍くらい飛び越した。天使の頭の上に若葉が広がり、それは太陽の光を木漏れ日にして天使の頭の上に降らせた。

林檎の木はちいさな白い花をたくさんつけた。花の盛りの後、林檎の木は期待どおり、たくさんの林檎の実をつけた。

果実が重くて、枝が垂れさがるほどたくさん。どんなに食べても食べきれないほどたくさん。そう、争いようがないほど、たくさん。

林檎の木の下には、天使たちも悪魔たちも人間たちも犬たちも、みんながわいわい集まって、その実りをお祝いした。

もう誰も、林檎のことでけんかしようと思わなかった。

 

人間の少年は、お腹いっぱい林檎を食べて幸せだった。食べきれないほどあるので、お母さんにもお父さんにも、好きな女の子にも分けてあげた。みんなから、ありがとうと言われて、少年はうれしかった。

 少年は、あのときの犬のことも忘れていなかった。けんかをしたときすでに年老いていたあの犬は、林檎の実がなる頃には、もうこの世を去ってしまっていた。だから少年は、犬が眠っているお墓の前に、毎日たくさんの林檎を積み上げた。そして、林檎の問題が解決するまでに、こんなに時間がかかってしまったことを、手を合わせあやまった。

 天使は、その美しい眺めを喜んだ。草の間の林檎も綺麗だったけれど、木に実る無数の林檎は、もっとずっと美しく見えた。天使が林檎の木の枝に腰かけて、その素晴らしい眺めを楽しんでいると、あのときの悪魔がやってきて、きいた。

「この中でいちばんきれいな林檎の実って、どれだと思う?俺、それを父さんにあげたいんだ」

「きれいなものを見つけるのには、自信があるよ。一緒に探そう」

 天使と悪魔は、仲良く並んで羽ばたいて、林檎の木の周りや枝の間をとび回った。

白と黒の翼の上には、おそろいのこもれびがきらきらと踊った。

 

 

■■■

確か、なんで人は争うのか、それを解決するにはどうしたらいいか、みたい平和学を学んでいた時に書いた文章。

ヨハン・ガルトゥングの平和学の理論が元ネタです。ガルトゥングが「取り合い」の種として出したのはオレンジでしたが、林檎のほうが好きなので林檎にしています。

 

しかし、この寓話が闘争を解決する最適解ではないなあというのが、読み返して思うこと。

闘争を解決するには、その火種となるものを多く用意するしかないのでしょうか。

もしもたくさんの林檎にも優劣があったらそれはまた争いを生むかもしれません。

・・・・でも、必ずしも真っ赤な林檎が甘いとは限らないね。

 

 

 

 

 

ポートレイト2

彼女との思い出は、カーテンの陽だまりの中。

小学生の昼休み、放課後、中学生の昼休み、わたしたちはよくカーテンの中に入って話した。小学生の頃は彼女の雰囲気は、白色に、ミルクティ色のブチがある子猫に似ていた。わたしよりも背が低くて腕が細くて、わたしの中に庇護の義務感を思い起こさせるものだった。だからわたしは、彼女のそばにいたのかもしれない。中学生になってから気づいたけど、彼女はわたしがそばにいなくたって、どんどんすてきに、強くなっていった。

彼女との思い出は、校庭の隅っこの遊具。わたしはそこで、彼女が好きな本の話を聞いた。誰かと友達になるきっかけなんて覚えていないものだけど、彼女との場合はよく覚えている。後日わたしは彼女からその本を貸してもらった。青い鳥文庫のシリーズ物のそれは確かにほんとうに面白くて、2人で新刊の発売日を指折り数えた。当日、千円札を握りしめて駅ビルの6階の本屋までエスカレーターを駆け上がったのを覚えている。その児童書はもう読むこともないだろうけど、そんな思い出がいっぱいくっついているから、これから先も永遠に捨てないだろう。

彼女との毎日は、物語を紡ぐ日々だった。わたしたちはしょっちゅう手紙を交換した。毎日会うくせに、毎日手紙を書いていた。交換ノートはよく貯めたけど、彼女との文通の返事は滞らせたことがなかった。書きたくないと思った日はなかった。今ではメールの返信1つに手間取っているくせに、不思議なものだ。彼女と文通していた頃、打てば響くような言葉のやりとりが、どんどんわたしに文字を書かせた。今思えば、こうして文字を書くことがさほど辛くないのは、彼女との文通のおかげかもしれない。便箋に5枚も6枚も、呆れるほどくだらないことを書いていたと思う。クラスの行事のこと、気になる男の子のこと、夢中になっている本のこと、友達とのいざこざ、数々の妄想。その手紙を読むのも、カーテンのひだまりの中だったりした。

彼女は絵を描くのが得意だった。細くて白くて長い指が鉛筆を握れば、やわらかくて優しい絵がいくつも描かれる。線が薄い彼女の絵は、しゃぼん玉みたいに儚くて可愛い。

彼女はよく、わたしが書いた物語に彼女が挿絵をつけてくれた。わたしが書いた物語を漫画にしてくれた。わたしが作った設定のキャラクターで全く別の物語を漫画にしてくれた。そのときのことを思い出すたびに涙が出そうになる。自分の頭の中身が誰かの手に渡って、大切に扱われることの心地よさ、気持ちよさ。その安心感を教えてくれたのは彼女だった。だから、彼女との創作はわたしにとって、子どものごっこ遊びでは済まされないのだ。彼女はわたしの妄想を一番よくわかってくれる人だったから、それができた。

「話していると、ときどきふっとあなたはどこかにいくでしょ。そういうとこがいちばん可愛い。あ、こいつどっか行ってんなーってときの顔、それがあなたの色気だよ」

成人して会ったとき、彼女はそう言った。その頃の彼女はちょうど専門学校を出る頃で、いろんな人に会って、いろんなデザインの技法を学んでいた。大学2年生のわたしよりもずっと大人びていた。陽だまりの中にいた、白色にミルクティ色のブチがある子猫はそこにはいなかった。

20歳の誕生日、ある郵便物がとどいた。開けてみると、ごくごく薄い文庫本だ。編み物で作ったような柔らかい雰囲気の花が咲いた表紙で、タイトルは「bouquet」、送り主が彼女だった。

その頃のわたしは、あるサイトで小さな物語や詩を書いていた。それを見つけた彼女が、そのサイトにあるわたしの文章で本を作ってくれたのだ。

「あのサイトにある短編、まとめてタイトルつけるとしたらなんだろ?」

「花束…bouquetかな」

「なるほどね、すてきだね!」

そんなやりとりを、たしかに、した。だけどそれがこんな形になって自分の手元に届くとは思っていなかった。本屋さんに並んでいてもおかしくないデザインの本だったから、すぐには分からなくて、でも、目次を開いたら見覚えのある字の並びだったから、ハッとした。ページをめくると品の良い明朝体の縦書きの文字が並んでいる。ドキドキ胸が高鳴って、わたしはその小さな本を抱きしめて、しばらく泣いた。玄関で、靴も脱がずに。

彼女とは中学を卒業した後、めっきり会う頻度が減っていた。それでもこんなに気にかけて、寄り添って、わたしの言葉を大切に扱ってくれるのだ。

その頃のことを思い返すたび、また創作しようかなと思い返す。彼女と創作した頃の物語のキャラクターたちはまだわたしの頭の中では生き続けているから全く不可能ではない。

もしも……もしもわたしが本を出したら、表紙や挿絵は全部彼女に任せたい。中学校の教室の片隅でやっていたことを、いつか社会にお披露目できないかななんて、痛々しい妄想が今日も止まないのだ。

ポートレイト1

ひと目見た瞬間から、「この人は忘れられない人になる」という予感が身体を貫いた。それは不思議な感覚だった。好きだとか惚れただとか、そういう次元の話はぶんっとどっかに放り出されてしまって、「この人のこと、わたしの人生に取り込みたい」という欲求がグッとわたしの心を掴んだ。一目惚れよりも、もっと鮮烈な力強さだった。

「はじめまして。よろしくお願いします」

通り一辺倒の挨拶なのにそれは福音のようにわたしの耳に響いた。やわらかくて、春風みたいなその声は、わたしが彼の中でいちばん最初に好きになった部分だった。

立って彼と話すとき、わたしよりもはるかに長身な彼を見上げるようにして話さなければならない。黒い四角いフレームの眼鏡が真面目な印象をあたえる。おまけに少し癖がかかった、遊びを知らない黒髪だから、余計に真面目に見える。もっというなら、理系の学部の彼は実験の際に白衣を着るというのだから、そんなときの彼は余計に余計に真面目に見えてしまうに違いない。わたしは彼の白衣姿を見たことがないけれど、見てしまったら正気を保っていられるかどうか。

眼鏡の奥の瞳はぱっちりと二重で、すてきな景色をたくさん見た子どもみたいにきらっとしている。わたしは、どこを見ているんだか、なにを考えているんだかわからない横顔をこっそり眺めるのが出会ったときから今まで、ずっと好きだ。

彼は、人に聞かれないと自分の話をしないから、彼と話すととても楽しい。出会った当初は、そのやわらかい声と穏やかさしか見えていなかったから、純朴で優しい人だと思っていた。わたしは記憶の中にいる彼のその優しいところを甘く、甘く編集していた。最初にあったきり、3ヶ月近く会えなかった、そのあいだに。

ふたりきりで話してみると、彼は想像していたよりもずっとたくましくて、ゴリゴリに理性派で、自分でも言っていたけど「あまのじゃく」で、容赦がない。

「キュンとする要素ひとつもないでしょう」

彼は自虐的にそう言ったけど、そう言ったときのも身振りも照れ笑いみたいな表情も、わたしに言わせればグッとくるところだらけだ。魅力がダダ漏れていることに気づかないから、罪な人だよなと思う。

真面目な顔で真面目なことを言ってる彼はそれだけでセクシーだ。ちょっとしたゲームにさえすごく真剣になってる顔は、まともに見られないくらいセクシーだ。この魅力に、わたし以外の誰も気づいていないんだとしたら、みんなはなんで損をしてるんだろう。でも、わたし以外の誰も知らなくていい。

一度、対面で一対一のボードゲームをしたことがある。3回くらい私を負かして、屈託なく「おもしろかったね」と笑った。ゲーム中に手加減はしないくせに、これ以上負かしたら可哀想、という優しさはあるらしい。

彼は身長が高いけれど、細身で撫で肩なせいか、存在に威圧感がない。だから、一緒にいると心地いい。いつも誰かのために自分心の中の半分くらいスペースをあけておいているみたいな余裕がある。誰と一緒にいてもすとんと馴染む。

この心地よさを感じているのはきっとわたしだけではないだろう。だから、彼の周りからは人がいなくならないし、彼がいないと必ず誰かから「あいつは?」と声があがる。リーダーシップはとらないくせに、いないと妙に不安になる。みんなの輪の中にいる彼は、みんなのことを穏やかにゆすってあやす、ゆりかごみたいだった。

「人当たりがいいのは、親の転勤が多くて、転校しっぱなしだったからかもしれない」と彼は自分の性格について語った。強固な自己を保つことよりも、他者を受け入れることでその場に馴染んできたらしい。「転校寸前に、金八先生の転校生がいじめられる回を見てしまって、怯えてた。ずっと喋らないでいたら石像っていうあだ名がついちゃって。それで反省して、頑張って話すようにしたんだ」そんな些末なエピソードさえ、面白おかしく語るから、彼の話には耳を傾けずにはいられない。

「就活でいいなとおもうところが東北の方あるんだけど、着陸寸前、風が強くて着陸できないってなって、東京にそのまま帰って来ちゃったんだ。リスケしてもらえたけど、自分の中で集中力が切れちゃった」

それは不運だね、とわたしは心底同情した。

「そう、そうなの、本当に最近不運。だってチョコボールもさぁ…」

「はっ?チョコボール?」

「うん。今年に入って、エンゼルがぴたりと当たらなくなった」

いつから集めてたの?ってかなんで集めてるの?就活の愚痴と並列するほどがっかりなの?どこから突っ込んでいいか分からない話に笑いが込み上げる。どうしてそんなに悲しい顔してるんだ、チョコボールくらいで。

「前にエンゼル当てたことがあって、すっごく嬉しかったんだ。また集めたいなと思って。研究室のみんなでやってるんだよ。みんなちゃんと買ってるのに…全然あたらない。あれって、見分け方があってさ」

彼とその話をしてから、しばらくわたしのおやつはチョコボールになった。

 

彼のことは、少し知った気になっていたけど実はまだ全然知らない。でも、ちっとも焦っていない。少しずつ知っていけばいい、いや、むしろずっと知らないままでもいい。あなたのこと知りたいからそばにいたいわって、しわくちゃになっても、言ってみたい。

ひと目見た瞬間から、「この人は忘れられない人になる」という予感が身体を貫いた。それは不思議な感覚だった。好きだとか惚れただとか、そういう次元の話はぶんっとどっかに放り出されてしまって、「この人のこと、わたしの人生に取り込みたい」という欲求がグッとわたしの心を掴んだ。一目惚れよりも、もっと鮮烈な力強さだった。

「はじめまして。よろしくお願いします」

通り一辺倒の挨拶なのにそれは福音のようにわたしの耳に響いた。やわらかくて、春風みたいなその声は、わたしが彼の中でいちばん最初に好きになった部分だった。

立って彼と話すとき、わたしよりもはるかに長身な彼を見上げるようにして話さなければならない。黒い四角いフレームの眼鏡が真面目な印象をあたえる。おまけに少し癖がかかった、遊びを知らない黒髪だから、余計に真面目に見える。もっというなら、理系の学部の彼は実験の際に白衣を着るというのだから、そんなときの彼は余計に余計に真面目に見えてしまうに違いない。わたしは彼の白衣姿を見たことがないけれど、見てしまったら正気を保っていられるかどうか。

眼鏡の奥の瞳はぱっちりと二重で、すてきな景色をたくさん見た子どもみたいにきらっとしている。わたしは、どこを見ているんだか、なにを考えているんだかわからない横顔をこっそり眺めるのが出会ったときから今まで、ずっと好きだ。

彼は、人に聞かれないと自分の話をしないから、彼と話すととても楽しい。出会った当初は、そのやわらかい声と穏やかさしか見えていなかったから、純朴で優しい人だと思っていた。わたしは記憶の中にいる彼のその優しいところを甘く、甘く編集していた。最初にあったきり、3ヶ月近く会えなかった、そのあいだに。

ふたりきりで話してみると、彼は想像していたよりもずっとたくましくて、ゴリゴリに理性派で、自分でも言っていたけど「あまのじゃく」で、容赦がない。

「キュンとする要素ひとつもないでしょう」

彼は自虐的にそう言ったけど、そう言ったときのも身振りも照れ笑いみたいな表情も、わたしに言わせればグッとくるところだらけだ。魅力がダダ漏れていることに気づかないから、罪な人だよなと思う。

真面目な顔で真面目なことを言ってる彼はそれだけでセクシーだ。ちょっとしたゲームにさえすごく真剣になってる顔は、まともに見られないくらいセクシーだ。この魅力に、わたし以外の誰も気づいていないんだとしたら、みんなはなんで損をしてるんだろう。でも、わたし以外の誰も知らなくていい。

一度、対面で一対一のボードゲームをしたことがある。3回くらい私を負かして、屈託なく「おもしろかったね」と笑った。ゲーム中に手加減はしないくせに、これ以上負かしたら可哀想、という優しさはあるらしい。

彼は身長が高いけれど、細身で撫で肩なせいか、存在に威圧感がない。だから、一緒にいると心地いい。いつも誰かのために自分心の中の半分くらいスペースをあけておいているみたいな余裕がある。誰と一緒にいても、すとんと馴染む。

この心地よさを感じているのはきっとわたしだけではないだろう。だから、彼の周りからは人がいなくならないし、彼がいないと必ず誰かから「あいつは?」と声があがる。リーダーシップはとらないくせに、いないと妙に不安になる。みんなの輪の中にいる彼は、みんなのことを穏やかにゆすってあやす、ゆりかごみたいだった。

「人当たりがいいのは、親の転勤が多くて、転校しっぱなしだったからかもしれない」と彼は自分の性格について語った。強固な自己を保つことよりも、他者を受け入れることでその場に馴染んできたらしい。「転校寸前に、金八先生の転校生がいじめられる回を見てしまって、怯えてた。ずっと喋らないでいたら石像っていうあだ名がついちゃって。それで反省して、頑張って話すようにしたんだ」そんな些末なエピソードさえ、面白おかしく語るから、彼の話には耳を傾けずにはいられない。

「就活でいいなとおもうところが東北の方あるんだけど、着陸寸前、風が強くて着陸できないってなって、東京にそのまま帰って来ちゃったんだ。リスケしてもらえたけど、自分の中で集中力が切れちゃった」

それは不運だね、とわたしは心底同情した。

「そう、そうなの、本当に最近不運。だってチョコボールもさぁ…」

「はっ?チョコボール?」

「うん。今年に入って、エンゼルがぴたりと当たらなくなった」

いつから集めてたの?ってかなんで集めてるの?就活の愚痴と並列するほどがっかりなの?どこから突っ込んでいいか分からない話に笑いが込み上げる。どうしてそんなに悲しい顔してるんだ、チョコボールくらいで。

「前にエンゼル当てたことがあって、すっごく嬉しかったんだ。また集めたいなと思って。研究室のみんなでやってるんだよ。みんなちゃんと買ってるのに…全然あたらない。あれって、見分け方があってさ」

彼とその話をしてから、しばらくわたしのおやつはチョコボールになった。

 

彼のことは、少し知った気になっていたけど実はまだ全然知らない。でも、ちっとも焦っていない。少しずつ知っていけばいい、いや、むしろずっと知らないままでもいい。あなたのこと知りたいからそばにいたいわって、しわくちゃになっても、言ってみたい。