夏のいいなり

「夏っていうだけとっても楽しい気もちになって、本当は別になにもしてないのに、なにかをした気になっちゃうから、夏ってほんとに危ないと思う。」

スーパーで買ったオレンジジュースを担いで帰る帰り道、わたしのかわいい友達が、はしゃぎ気味の声でいった。

よく見たら彼女が着ているのはパイナップル柄の薄手のブラウスで、それだけでもう、夏を楽しみにしているのがわかるくらいだった。

空に浮かんだ分厚い雲の城の向こうに太陽はまだ隠れていて、真夏の日に燦然と降らせるシャワーを蓄えているに違いない。湿気を含んだ空気がだるさになって手足に絡みつき、頭のどこかに寄生して眠気を誘う。わたしは自分の体がそういう状態になると、ああほんとうに夏が体に沁みてきたなという気持ちになる。

 

夏の、全てを「特別」に変えてしまうパワーの正体は何だろう。

まさかこんなに大人になっても「夏休み」にわくわくしているのだろうか。

子どもの頃に経験した夏の非日常的な経験が遺伝子レベルで刷り込まれていて、夏の匂いを嗅ぐと何となく、わくわくしてしまう、とか?

 

そうでなくても、夏が現実離れした色に染め上げられているのは確かだ。

嘘みたいにまぶしい日差しを跳ね返す緑。

声は聞こえるのにその姿はなかなか見つからない蝉。

きらきら光る氷菓子。

明るいうちから一杯やろうぜと誘いかけるような夕方。

夏は人をだます罠をたくさん仕掛けてわたしたちを惑わす。

 

夏の頃の思い切り現実離れした舞台と言えば、お祭りをおいてほかに考えられないとわたしは思う。

着るものからお化粧までいつもの自分とは全然違う。指先への力の入り方だって頸の伸ばし方だっていつもよりちょっぴりしゃんとする。「お祭りだから」という理由でいつも下手にいじらない髪を巻いてみたりとかして、そんなふうに浮かれることを許されるのが「お祭り」だった。

着飾るのは町も同じで、いろんな屋台が出ていて、電柱伝いに赤い提灯がつるされている。食べるものも、夏の夜の空気と一緒にたべる屋台飯は別格。

人込みは嫌いだけど、何もかもがこの日のためにある、というような祭りの日が好きだった。

 

今までで一番楽しかったお祭りは、川越まつりだ。

季節的には10月なので夏祭りとは言えないが、とにかく派手で気風がいい。

日中は、どこからか笛の音や太鼓の音が聞こえたり、獅子舞が躍る見世物屋台のようなものを見かけたりする。暮れなずむ空に合わせて街全体がぼんやりと宙に浮いていくかのように現実から乖離して、「祭り」の熱を帯び始める。

川越祭りでは多くの山車が行列を成して道を行き来し、交差点で鉢合わせすると掛け声とともに競り合う。(決着がどうなのか、あらかじめ決められているのか、よそからふらっと来ただけのわたしにはわからなかった。)

とにかく人が多くて、けがやけんかや事故が起きるということも容易に想像できる現場なのに、そこにいる誰しもが全く当然というように楽器を鳴らしたり怒鳴ったりしていてた。「理屈とかはどうでもいい」みたいな思い切りの良さが、実はハレの日には一番大切だということを知ったのだ。

 

 

そんな祭りも、今年は何もかも見込めない。

ささやかなバーベキューだってデイキャンプだって叶わない。

それでも来てしまった夏を、わたしはどう受け入れればいいのだろう。

  

8月1日ぴったりに梅雨が明けて、その途端空にはすっかりたくさんの入道雲が建立された。こんなにわかりやすい季節の変わり目がいままであっただろうかと苦笑したくなるほど。何週間かぶりに顔を見せた太陽は、その長い休暇中に蓄えたエネルギーを唐突に振りまき始めた。予想していた通りだった。

 

母とスーパーに買い物に行く途中に目に留まったセミの抜け殻を見つけた。

「夏って感じがするねえ、こんな時でも季節は進むよね。そりゃ当然のことだけど、妙に安心しちゃうなあ」と母がしみじみと言った。

こんな世界に狼狽えているのは人間だけなんだということを、夏の日差しの中に揺られて気づく。

 

そんな日差しの中にいて、わたしはいくつかのことを思い浮かべる。

カルピスを飲もう。アイスティーにはレモンを浮かべよう。祖父母の家で採れた梅で仕込んだ梅ジュースも、たくさん、たくさん飲もう。桃には丸ごとかじりつこう、水族館に行こう。普段聞かない音楽を聞いてみよう。昨年買った服を丁寧に着まわそう。

そうすればきっとわたしの体にはいい夏を呼び込める。

わたしは今年、夏のいいなりにはならない。