林檎

 

無駄なファイルを消そうとパソコンをいじっていたらこのような物語が出てきたのでここでこっそり供養しますね。

 

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その日は、秋のようにすっきりとした青空で、春の日のように心地よい風がそよいでいた。夏のように木漏れ日がまぶしく、冬のように空気が澄んでもいた。それぞれの季節の良いところを少しずつきりとって一つの日のなかにギュッと閉じ込めたような、魔法のようにすてきな日だった。

天使の子が、大きな木の上で翼を休めていると、青々と茂った草の陰に、ぴかぴか光る赤い林檎の実が転がっているのを見つけた。あんまり美しかったので、天使は、それを家に持って帰ろうと決めた。

天使は、林檎のもとへ舞い降りて、そのそばに寝そべった。生い茂る野草と同じ目線から林檎を眺めていると、大きな木の葉っぱのすき間からこぼれた光が、真っ赤な林檎の表皮に照り輝いて、不思議な模様を描き出すのがよく分かった。目に入る世界の何もかもが美しく、翼を洗う風もきらきらと心地よく輝いた。

天使が、そんな美しい世界の真ん中でまどろんでいると、突然、ばっと視界が黒い影の中に沈んだ。それまで輝いていた林檎の輝きも、一瞬で失われた。

大きな翼を広げたからすのような風貌の悪魔の子が、天使の真上で羽ばたいていたのだ。

「その林檎を渡してもらおうか」

悪魔の少年は横柄な口ぶりで言った。天使は、その爪の鋭く伸びたきたならしい手に、こんなも美しく光る林檎が触れることが許せなかった。

「いやだよ、僕が先に見つけたんだもの」

天使はそういい張って、林檎を胸に抱きかかえた。

「その林檎を落としたのは、俺のお父さんなんだ。だから、その林檎は俺のものだ」

悪魔はそういう理屈で、天使の手から林檎を奪おうとした。

「こんなところに置きっぱなしにしておくのが悪いよ。どうしてすぐに取り返しに来なかったのさ」

「どこに行ったのかわからなかったんだ。今日まで、ずっと探してた。返せよ」

 悪魔がそういっても、天使はぷっとふくれっ面のまま応じない。

悪魔は思った。ははあ、天使のやつ、きっとお腹がすいているんだな。だからこんなに必死に林檎を欲しがるんだ。

「そんなにこいつが欲しいなら、半分に割って、わけあおうじゃないか」

しかし天使は、胸の中の林檎を一層強く抱きしめてその提案にも首を横に振った。

天使にとっては、傷一つない美しい林檎であることが大事なのだ。これが真っ二つにされてしまったら、その美しさも半分になってしまう。天使にはそれが許せない。

「いやだよ。ぼくは、これを丸ごと一つじゃなくちゃ、やだ」

そういって翼を羽ばたかせ、逃げようとした天使を、悪魔はすかさず捕まえた

捕らえられた拍子に、天使の手から林檎が滑り落ちた。それを、あとからやってきた人間の少年が拾い上げた。

「その林檎は、僕のなんだ。お願い、返して」

「違う、それは俺の林檎だ」

 天使と悪魔が必死の表情で手を差し出すので、少年は困惑した。

もし天使の味方をしたら、悪魔に恨まれて呪われてしまうかもしれないし、かといって悪魔の見方をしたら、天使に恨まれて、永遠に幸運を授けてもらえないかもしれない。

少年は必死に頭を働かせて、ある名案を思いついた。

「じゃあ、賭けをして勝ったほうがこの林檎を手に入れるっていうのはどう?僕が審判をやるよ」

 少年は、片手でぽんぽんと林檎を弾ませながら言った。本当は、少年はのどが渇いていたので、その林檎をどちらにも渡したくなかった。あわよくば、自分のものにしてしまおうと思ったのだ。

 少年は、大きな木にとまっている一羽の鳥の姿を見つけた。

「あそこに、鳥がいるだろう。あの鳥が、どっちへ飛ぶか、賭けをしよう」

「ぼくは、東側に賭ける」天使が言った。

「じゃあ、おれは西側に賭ける」と、悪魔。

「そのどちらでもなければ、この林檎はぼくがもらおう」

 人間の少年の言葉に、天使も悪魔も驚いて、それは違うよ!と、少年につかみかかった。その大きな声に、木の小鳥は驚いて飛び去ってしまった。

天使と悪魔は、「今の、どっち?」と声をそろえて聞いた。

しかし、審判である少年は、天使と悪魔がいきなりとびかかってきたので、その小鳥の行方を見逃してしまっていた。

「俺の味方になってくれたら、林檎を半分やるよ」

 悪魔が、こっそり少年に耳打ちした。少年は、ひどくのどが渇いていたので、その誘いには、心が揺らいだ。

「ええと、今、小鳥は…」

少年が、西側、といいかけたとき、そこを通りかかった一匹の犬が、東側じゃなかった?といいだした。

「なんの賭けをしてるのか知らないけど、鳥は、時計台のある東側へ飛んでいったようにみえたよ」

 毛が伸び放題で、モップのような見た目のその犬は、長く伸びた毛のすき間から、賢そうな目をきょろきょろさせて言う。

「そんなことない、西だね」

 悪魔は、断固とした口調で宣言した。少年は、林檎をどうしても食べたいの思うあまり、つい、悪魔の見方をした。

「ぼくも、西だったと思う…」

 それを聞いた犬は、牙を見せて少しうなった。犬は、ちっともかわいげのない見た目のせいで、子どもたちからひどいいじめをうけていたのだ。だから、人間のことが大嫌いだった。人間の少年が悪魔の味方をするなら、自分は天使の味方をしてやろう、と思ったのだ。

「いいや、東!」

 犬は、のどの奥でウウーっとうなりながらいった。

 

 

もう、だれが何のためにあらそっているのかわからなくなってしまった。

天使は、美しかった白い羽根を、悪魔にも人間の少年にも犬にも千切られた。悪魔は、鋭くとがった爪を踏みにじられ、こうもりのような羽も、お化け屋敷のカーテンみたいにひどい有様に破かれてしまった。

少年の体中には犬の牙の跡が残り、悪魔が触れたところには呪いがかかって、ずきずきと痛んだ。少年に羽をむしられた天使は彼を恨み、もう一生幸福を授けないぞ、と声高に叫んだ。老いた犬は蹴飛ばされたり、長く伸びた毛を乱暴に引っ張られたりした。

もう、何もかもめちゃくちゃなけんかだった。

そんなふうに、取っ組み合ったり、口汚くののしりあったりするみんなの真ん中にいる林檎は、そういう醜い争いに嫌気がさしたのか、何かの拍子にくるるっと転がり出した。

「ああ、待って!」

みんなが、おんなじことを叫んで、林檎めがけて突進した。傷だらけの徒競走だ。

林檎は、後からついてくる三人と一匹がよほどおかしいのか、けらけら笑っているかのように愉快に弾んで、元気よく転がっていく。

先回りしようとした天使の足首を、悪魔はつかんで離さないし、人間の少年は前に出ようとした犬の足を引っかけて邪魔をして、一緒になって転がった。

林檎はどんどん遠ざかってゆく。

みんな、お互いの足を引っ張ったり、引っかけたりしながら、「こんなことをしている場合じゃない」と知っていた。

けれどそれとおんなじくらい強く、「こうでもしないと誰かに林檎を取られてしまう」と思っていた。

みんなの目線の先で、ぽおんと林檎が大きく跳ねたと思ったら、その先の地面の裂け目に、真っ逆さまに落ちていった。

「あーっ!」

みんなは、割れた地面を覗き込んだ地面の裂け目からは、ひょうひょうと風が吹き抜ける音だけがむなしく鳴っている。真っ暗で底が見えないので、誰もその崖を降りて林檎をとりに行くことはできなかった。

「……最終的に、林檎を手に入れたのは、地面だったね」

 人間の少年は、どうにかみんなが納得できるような結末の文句を考えて、ぽつりとつぶやいた。天使も悪魔も犬も、黙ってうなずいたけれど、だれも納得していなかった。

 みんな、本当は思っていた。 

あんなにけんかしたのに、待っていた結末が、これ?

「……痛いなあ。あ、この傷、悪魔のやつがひっかいたんだ」

長い沈黙の後、天使は、ミルクのように真っ白い腕に浮かんだ一筋の赤い血を、手の甲でぬぐいながらいった。

「こっちだって、羽を引き裂かれたさ。もう一生飛べないかもしれないぞ」

 悪魔はそういって、天使をにらみつけた。その目の上にも大きなたんこぶができて、その鋭いまなざしにはいっそうすごみがあった。

「そんなことより、僕にかけた呪いを解いてよ、あちこち痛いんだ」

「誰かな、あんなにさんざん、わたしのしっぽを踏んだのは!」

犬は、薄汚れた毛がぐしゃぐしゃになっていて、乱暴にぐるぐる巻きにした毛糸玉のようなかっこうになっていた。

みんな、自分がどれくらいつらくて苦しかったか、言い争った。でも、誰も謝ろうとはしなかったし、誰のことも許そうしなかった。慰めようともしなかった。   

ついにしびれを切らした人間の少年が、声高に叫んだ。

「もういい、みんな大嫌いだ!」

 

 

一人残された天使は、傷だらけの羽を伏せたまま、一人で泣いた。あんなにきれいだった林檎が争いを招いたことが、悲しくて泣いた。

 悪魔は、傷だらけの羽を引きずって歩きながら泣いた。自分の父が持っていたものを取り返せなかったふがいなさに泣いた。

 人間の少年は、悪魔にも天使にも嫌われてしまったことが悲しくて泣いた。二人のことを大嫌いだといってしまったことも悲しくて泣いた。

 老いた犬は、体のあちこちが痛くて泣いた。よく考えると、自分がなぜあんな争いに巻き込まれてしまったのかわからなかった。残ったのは、傷ついてさらにみすぼらしくなってしまった身体だけ。それがむなしくて、よけいに涙が止まらなかった。

 

 けんかのあとも、日々は続いた。ふつうの日々を送っているうちに、崖の中に落ちていった林檎のことなんかみんな忘れてしまった。

しかし、林檎のことを忘れても、けんかしたとき痛みや傷を忘れたことにはならなかった。むしろ、その痛みや傷は、長い時間をかけて発酵し、それぞれの心にしっかりと根を張ってしまった。

「ねえ、ぼうや。この傷どうしたの。ただのけんかの傷じゃなさそうね」

 少年の体の傷がなかなか良くならないのを心配した少年のお母さんがいった、少年の背中には、暗くよどんだ赤茶色の傷が残っていた、それは、悪魔のひっかいたところだから、呪いのようにじりじりといつまでも痛むのだった。治る気配はなかった。

「これね、悪魔にひっかかれた傷だよ。もう、一生消えないかもしれない…」

「まあ、なんてことするんでしょうね、悪魔というのは!」

「悪魔だけじゃないんだ。犬や天使も、ひどいんだよ。殴ったり、かみついたり」

「まあ、なんてひどいの」

 少年のお母さんは、自分の子どもを傷つけられ、天使や悪魔、犬のことを恨み始めた。お母さんは、それまで家に飾ってあった天使の絵を全部しまい込んだ。

 

 

 天使は、友達の天使に愚痴をこぼしていた。

「ぼくら、人間に愛されてると思ってたけど、全然そんなことなかったんだ。みて、この傷。人間の男の子にやられたんだ…」 

 天使は、頬にできた傷をさすりながら言った、天使の友達は、人間のことを許せない、と思った。

「それにね、犬だって噛みついたんだ」

「もう、誰のことも天国に連れていくのなんてやめちゃおうか」

「もうそんな人間や犬なんかに、幸せなんか授けなくっていいよね」

「うん、いいよね」

 

犬も、自分が受けた仕打ちのことを親戚のみんなに話して回った。犬の親せきは、みんな、それはひどいねと犬に同情し、人間は悪いやつだと言い合った。そのうち、犬たちは今までどれだけ自分たちが人間に働かされてきたかを語り合うようになった。そして、やっぱり人間は、地球で最悪の生き物だと思うようになった。

 

悪魔は林檎を取り返せなかったことを、お父さんに謝りに行った。

黒檀のぴかぴか光る大きな椅子に腰かけて呪いの書を呼んでいた悪魔のお父さんは、何も言わずに、傷ついた悪魔の翼をちらっと見て、ため息をついた。

「そんな奴らに負けて、どうする」

 悪魔は、細い肩をさらに小さく縮めて、ごめんなさいと謝った。恥ずかしさと情けなさにたまらなくなって、お父さんの前から逃げるように全速力で走って、姿を消した。

天使や人間や犬がいなければ、お父さんにほめてもらえたのかもしれないと思うと、みんなを呪う気持ちは一層強くなった。悪魔は、もう世界のすべてを呪ってやる、と思った。 

自分でも気づかないうちに、頬には涙が伝っていた。悪魔はそれをぐいっとぬぐったが、涙はあとからあとからこぼれてきた。通りかかった年上の悪魔がそれを見つけ、

「泣くなんて、悪魔の恥さらしだぞ!」とからかっていった。

この瞬間に、自分と同じ悪魔たちのことも大嫌いだと思うようになった。いや、もしかしたら自分が、本当は悪魔ではないのかもしれないと疑うようになった。暗い色の濃い影が、信じられないくらい冷たい影が、悪魔をとらえて離さなかった。

悪魔は、ほんとうのほんとうに、独りぼっちだった。

 

こんなふうにして、けんかの話は、いろんな人を巻き込んで、どんどん大きくなっていった。林檎の取り合いでじっさいにけんかした天使と悪魔と少年と犬だけの問題ではなくなってしまった。  

人間たちは、天使も悪魔も信じなくなった。犬たちだって、人間の言うことを聞かなくなった。お互いにつんと澄まして、ちょっとでも気に入らないことがあると、蟻のささやきをライオンの雄叫びにするくらいの勢いで騒ぎ立てた。

みんな、お互いに相手の失敗を虎視眈々と狙っていて、ほんの少し失敗すると、ここぞとばかりに、いろんな方法で攻撃した。

そんな窮屈な世界が出来上がってしまった。そんな揚げ足取りをしても意味がないことに誰も気がつかないまま、長い時間がたった。 

 

天使が治りかけの白い翼を羽ばたかせ、うすい水色の空をすべっていたとき、地面の裂け目からのぞく緑色の葉が目にとまった。それは、まるで地面がエメラルドをくわえているみたいに、不思議な眺めだったのだ。

 そこへ舞い降りた天使は、林檎が落ちていったあの場所だと気づいた。そして、地面から生えているこの葉っぱがまぎれもなく林檎の葉っぱだということにも気づいた。 

天使は、その緑の前にひざまずいて、一生懸命祈った。

お願い、みんなに、ひとつずつでいいの。あの日、もっとたくさん林檎があったなら、きっとけんかにはならなかった…。

ぶくぶくっ、ぶくぶくっ

 まるであわが膨れるように、木は葉っぱを茂らせて、背を伸ばした。天使は、それに励まされ、つよくつよく祈った。

お願い、お願い。けんかしながら、ほんとうはこの日を待っていたのかもしれない。一つを奪い合うことが、ばかみたいにおもえちゃうような…。

ぶくぶくっ……ぶわっ

林檎の木は、ぐんと背を伸ばし、あっという間に天使の背丈を二倍くらい飛び越した。天使の頭の上に若葉が広がり、それは太陽の光を木漏れ日にして天使の頭の上に降らせた。

林檎の木はちいさな白い花をたくさんつけた。花の盛りの後、林檎の木は期待どおり、たくさんの林檎の実をつけた。

果実が重くて、枝が垂れさがるほどたくさん。どんなに食べても食べきれないほどたくさん。そう、争いようがないほど、たくさん。

林檎の木の下には、天使たちも悪魔たちも人間たちも犬たちも、みんながわいわい集まって、その実りをお祝いした。

もう誰も、林檎のことでけんかしようと思わなかった。

 

人間の少年は、お腹いっぱい林檎を食べて幸せだった。食べきれないほどあるので、お母さんにもお父さんにも、好きな女の子にも分けてあげた。みんなから、ありがとうと言われて、少年はうれしかった。

 少年は、あのときの犬のことも忘れていなかった。けんかをしたときすでに年老いていたあの犬は、林檎の実がなる頃には、もうこの世を去ってしまっていた。だから少年は、犬が眠っているお墓の前に、毎日たくさんの林檎を積み上げた。そして、林檎の問題が解決するまでに、こんなに時間がかかってしまったことを、手を合わせあやまった。

 天使は、その美しい眺めを喜んだ。草の間の林檎も綺麗だったけれど、木に実る無数の林檎は、もっとずっと美しく見えた。天使が林檎の木の枝に腰かけて、その素晴らしい眺めを楽しんでいると、あのときの悪魔がやってきて、きいた。

「この中でいちばんきれいな林檎の実って、どれだと思う?俺、それを父さんにあげたいんだ」

「きれいなものを見つけるのには、自信があるよ。一緒に探そう」

 天使と悪魔は、仲良く並んで羽ばたいて、林檎の木の周りや枝の間をとび回った。

白と黒の翼の上には、おそろいのこもれびがきらきらと踊った。

 

 

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確か、なんで人は争うのか、それを解決するにはどうしたらいいか、みたい平和学を学んでいた時に書いた文章。

ヨハン・ガルトゥングの平和学の理論が元ネタです。ガルトゥングが「取り合い」の種として出したのはオレンジでしたが、林檎のほうが好きなので林檎にしています。

 

しかし、この寓話が闘争を解決する最適解ではないなあというのが、読み返して思うこと。

闘争を解決するには、その火種となるものを多く用意するしかないのでしょうか。

もしもたくさんの林檎にも優劣があったらそれはまた争いを生むかもしれません。

・・・・でも、必ずしも真っ赤な林檎が甘いとは限らないね。