コンビニと話す


わたしは東京の大学に通っているので身にしみて実感するのだが、ここ数年でコンビニで働く外国人店員が著しく増加した。

もはや、日本人を見つけることの方が難しい気がする。ここでいう日本人、というのは、ネームプレートに記載されているのがあきらかに日本の苗字である、という意味で日本人といっているのだが、まあとにかくもう、そんな人は少ない。レア度が高い。

地方に行けばそんなことないかもしれないし、実際わたしの地元ではまだ日本人のパートのおばちゃんとかがレジを打っている。ただ、東京のコンビニにはやたらと外国人が多いというのが事実としてあるように思う。

それはたぶん、どこかでいろんな問題を呼んでいる。わたしは直接話しを聞いたことがないから知らないけど、例えば国籍によって、あるいは日本人と比較して雇用の条件に差があったり、意思疎通がうまく測れずシフトの交渉ができなかったり、勉強のために来たのに働きづめだったり。

それは、彼らにとっても不当な労働条件のはずだ。あとは、これまでフリーターの受け皿のような役割受け皿を果たしていたコンビニアルバイトの労働資本が外国人に優先されると、日本人のなかで、生活が困窮する人も出てくるかもしれない。  

外国人技能実習制度とか、名前だけもっともらしいものがまかり通っているようだけど、その実態は得体が知れない。とても簡単にわたしの意見を述べるとすれば、それは労働格差をさらに広げるだけのようなことに思われるので、見直す必要があるように思う。具体的にどうするとかは、ちょっとまだわからないけれど。ともあれ、そういう状況が事実ではある。


難しい問題は多々あれどそれはさておき、特にわたしが興味を持ったのは、コンビニにおけるコミュニケーションの在り方だ。

わたしの大学の近くのコンビニも、ほぼ外国人が接客に当たっている。そしてたいてい、彼らは片言の日本語で接してくる。母音や子音のバランスがたどたどしい。聞き取ることが困難なときもある。

コンビニでの販売においてコミュニケーションが成立してしまうのは、そこで行われるであろうコミュニケーションがあらかじめ想定されているからだ。

たとえば、ファミリーマートであれば「Tポイントカードはお持ちですか」お弁当であれば「あたためますか」「おはしはつけますか」「袋は分けますか」そのほか、「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」など。それらの、想定される会話のパターンから、相手の発音に最も近いものを選ぶ。


このことから分かるのは、コミュニケーションは場所に依存するということだ。


わたしはその外国人店員に向かって話しているように見えるけど、実際に会話の相手になっているのはコンビニだ。

だからわたしはその状況において、コンビニと話しているのだと思う。


こういうことは、都市部の買い物ではコンビニに限らずいろんなところで行われる。たとえばマックであれば、セットを頼んで、ドリンクとそのサイズをオーダーする必要があることを、私たちは知っている。だからあらかじめメニューを見ながら全部決めて、店員の指示通りに回答することもあれば、先回りしていっぺんにオーダーする場合もある。

逆に、そのように「あらかじめ行われるであろうコミュニケーション」を崩されると、店員はひどく面倒だと思うか、戸惑うかのどちらかだとおもう。あるいは後日雑談的にアルバイト仲間に話したり、変な客としてツイッターに投稿したりする。

そういうふうに、店員側の想定を超えてくる客、というのはたぶん、店と話しているのではなくて、その人個人に向かって話しているという意識が濃厚なのかもしれない。わたしも、飲食店のアルバイトをしているので経験がある。こちらから問うことはだいたい決まっているけれど、わざとそのへんをめちゃくちゃにする客がたまにいる。彼らがそうしたところで、強固にコード化された店側のルールにのっとって接客することには変わりないのは無情なことかもしれない。やや心を痛めながら接客する。


多様な人間が、それぞれの価値観と地雷を抱えながらまざりあっている都市では、全ての人に一律に、同じように接した方が無難だからだ。


こうしてどんどん、人の在り方は均質化されていくのだろうか。


想定されうるコミュニケーションが、店員と買い物客、という立場で行われるならまだしも、仕事仲間や学友との会話がこうなったらどうだろう。

けれども、そうなる日も近いとおもうし、もうすでにそうなっているような気がする。なんとはなく、「その状況で話すべきこと」とか、「その人と話すべきこと」というのが、自分でも気づかないうちにあらかじめ想定されている場合がある。