あの日のタコへ

 最近興味あるものはなんですか?

 

ある日突然、知人にそう訊かれて、答えに窮してしまったが、今では胸を張って堂々と「タコに興味があります」と言ってみたい。

タコの驚くべき知性に関しては既にちらほらと話題になっている。閉じ込められた瓶から脱出したり、水槽に取り付けられている電球を破壊してショートを楽しむタコもいるという。

 

最近水族館へ出かけて、水槽でじっと動かずに違和に張り付いているタコの姿を見た。何を考えているかわからない目は(基本的に水中に居るものはないを考えているかわからないが)しばらく眺めていると可愛らしくも見えてくる。眺めていると、そのタコが刻一刻と色を変え続けていることに気付いた。

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鴨川シーワールドのタコ

えっ?タコって色を変えるの?

色を変える動物なんてカメレオンと水中の大きなイカジャイアント・カトルフィッシュというらしい。たぶん、自然系ドキュメンタリーで見た)しか聞いたことがなかった。まさかタコも色を変えるなんて。

 

■人間の偏った想像力を超えるタコ

 ピーター・ゴドフリー=スミスによる著書『タコの心身問題』は、タコの不思議な生態について大きな愛情をもって書かれた本だった。まるで著者と一緒に海に潜っているような気分になれる本なので、夏にぴったりの一冊であるともいえる。表紙のタコもカッコよく、本棚に置いておいても、棚に飾ってもよく映える。

 

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机上の飾り棚は今日もにぎやか

 

 タコは、身体のいたるところに知覚・反応する機能を持っている、分散的な感覚で生きている生き物だそうだ。例えば人間は脳で知覚し、脳から指令を出して行動しているが、タコの場合は足には足に、皮膚には皮膚に、それぞれ知覚する機能があって、そんなバラバラな状態で世界を見ているらしい。タコが色を変えるのは、タコが頭で考えて色を変えているのではなくて、光の状況に合わせて皮膚が勝手に変色していくという。

 

 自分の感覚器官のいたる所に「知覚」が点在しているタコの感覚を想像すると、自分の体のことが急に気になりだす。

 例えばお腹に入った食べ物の味を、舌で感じるのではなく胃袋で感じるのだとしたら?暑さや寒さを感じるのが皮膚だったとしたら、それに応じて表皮が…例えば固くなったり、汗よりも粘りのある冷たい膜に覆われたり、するんだろうか。

 目で見ているものだって、例えば今は顔についている二つの目からしかみることができないが、もしタコのように全身で知覚する生き物だったとしたら、身体のどこかにもっとよく見える目を得ることがあるのかもしれない。 

 

 それでなんだか、私は人間の想像力の偏った豊かさを反省した。

 なんにでも人間は自分の感情を投影しがちだが、それが大間違いであることを、タコは教えてくれる。たしかに路上の猫とか蝉とかに人間の感情を重ね合わせてその動物の「気持ち」を邪推することがある。が、それは全くの間違いだったりするのだろう。

 

 余談だが、地上で生活する動物に関しては、なんとなく仲間という感じがするが、水の中の生き物は特に想像する甲斐がある。例えば、魚は人の体温でやけどをするとか、胃を持っていない金魚は消化不良を起こしやすいとか、そもそもえら呼吸であることとか、水の中の生き物の特別感は別格だなと思う。

 

■ちぐはぐなタコみたいに生きたい

 通常生き物は、目の前に物体が現れると、まずそれが自分にとって脅威ではないことを確認し、次にそれが食べられるものであるか確認する。人間以外の生き物の場合、脅威でもなければ食べ物でもないと分かった場合、興味を失うことがほとんどだ。しかしタコは物体に対して好奇心を示し、おもちゃで遊ぶ子どものように、その物体をいじくりまわすことがあるらしい。(カワイイ!)

 

 なぜ「好奇心」という複雑な感情のようなものが生まれたのか。タコをはじめとする頭足類は、殻を捨てたことにより巨大な神経系を形成し、複雑な知覚や動きを獲得したから、ということだそうだ。

 しかし単独で生活する社交性のない生き物であり(本にはオクトポリスというタコが集住する事例について書かれているが、それはタコ研究界においては新発見)、そんな複雑なコミュニケーションをとる必要はないとされている。…というかタコはタコ同士のコミュニケーションに関しては壊滅的な「コミュ障」ともいえるかもしれない。なぜなら、自分の体の色は変えるくせに色の識別はできないときているからだ。ではなぜ体の色が変わるのか?一つは擬態であることは間違いないが、著者のピーターはこのような頭足類の色の変化は「彼らのつぶやきである」と説明を加えている。

 

 もう一回水族館に行って、あのタコに聞いてみたい。

ちぐはぐで生きづらくないんですか?

 

 だが、そのちぐはぐ加減がいとおしい。

そんなに非合理的でも生きていけることは、人間にとってある意味ちょっとした救いでもあると思うのだ。タコが自分の体の色を変えるのは最低限の擬態のためであって、仲間とのコミュニケーションのためではない(だってタコは色を認識できないのだから)。

別に誰に見られていようといなかろうと、ひとりでにふわーっと体の色が変わってしまうなんて、タコはなんて自由で可愛らしいのだろう。

 そんなつぶやくような身体の動きや、服装は人間に可能だろうかと考えると、がぜんタコがうらやましい。私もそんなふうに、「つぶやき」を言葉ではない方法でほろほろとこぼしながら生きてみたい。と、無理だろうなと思いながら妄想してしまう。

 

■それぞれの賢さ

 まるで海を回遊するみたいな本とともに過ごした一週間だったわけだが、この本を読み終えて他の生き物の知性にも興味がわいてきた。

 例えば鳥の求愛、群れる蜜蜂あるいは蟻の社会性、イルカのコミュニケーション等々。人間からしてみればトリッキーな彼らの習性や生態は単純にトリッキーであるだけでなくて、様々な環境に適応してきた進化のバリエーションなのだとわかる。そして人間が言葉を手に入れ、道具を生み…といったことができるようになったのもまた、進化の一過程に過ぎず、特別なことでも何でもないと思える(もちろん他の生き物よりもずっと早さも質もずば抜けているけども)。

 

 人間は、人間以外の生き物を見て「あの生き物はその生き物よりも賢い」とか、「あの動物は人間でいうと3歳児に相当する知能がある」という言葉で動物の知性を賛美する。これはあまりに人間中心のものの考え方だ。

 人間はそれを同じ人間にも適応するときがある。その人が携わっている学問や職業・所属を見てその人の知性や能力を判断することがある。が、そんな乏しい人の見方は何が面白いのだろう。その人にはその人がたどってきた知性の道筋があり、それは人によって異なる。その表現方法も違えば、知性が垣間見える瞬間も個人差がある。知性があることとカリスマであることは同義ではない。

 そんなことをほえほえと考えてたどり着いたこと。

「多様性を認める」ということは、認めるなんてもんじゃ足りないくらいで、「個人の知性の奥深さを味わう」ことなんだろうと思う。

 

■私は人間が大好きだけれど、忘れないでいたいタコのこと

 タコにほれ込んではいるし他の動物に興味はあれど、わたしは人間が好きだ。感情が豊かで時間の感覚があり、それゆえ思い出や記憶があり、執着や嫉妬もあり、悩んだり迷ったりする、そんな複雑な人間という生き物が、私は大好きだ。

 一方で、この本が教えてくれた自分と全く異なる感覚を持つ生き物に対する想像力も忘れないで居たいと思う。どうにもうまくいかない!となったら、タコみたいに力を抜いて、ぐにゃりぐにゃり心の赴くままに体を動かすのも悪くない。もちろん、体の各部位に点在するタコの感覚を想像しながら(タコ式瞑想?)。

 

そんな両極を抱えて生きていれば、忙しさに埋もれて見えなくなった逃げ道や休憩場所がちょっとずつ見えてくるんじゃないかなと思うのだ。

 

 

 

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