さらば140文字の思考

 ぼくは高校生の頃からツイッターを使っている。

 高校生のぼくにはクラスに友達がいなかったから、ツイッターで知らない人からいいねがもらえるのとかがとても嬉しかった。多いときでは3つくらいアカウントを持っていて、いろんな人をフォローしていた。世界にはいろんな人がいるなと思った。高校はとても狭いところだったから(物理的にも質的にも)、SNSが大好きだった。SNSの中では田んぼの真ん中にある高校に通う女子高生など取りに足らない存在だし、ほしいとおもったときには狙い通り「いいね」がついて、つかの間のスター気分を味わったりもできた。

 

 大学生になってもツイッターは続けていた。相変わらず大学でも友達は少なかったので、ツイッターでのコミュニケーションはある意味救いだった。ぼくの趣味アカウントは一部の人に人気があったみたいで、「君も読んでいたの?」という人が目を通したりしていた。

 

 中学時代に不仲になった友達から嫌がらせを受けてアカウントを変えたけど、通算するともうすぐツイッターと付き合い始めて10年になる。家族の次に付き合いが長いのがSNSだなんて、すごく今っぽい。ああ、「ミレニアル世代」とか「Z世代」ってそういうことだなあと自分のことながらびっくりする。(アレクサが最初の親友!SNSが幼馴染!なんてのも、もう全然驚かないね)

 

 そんなツイッター愛用者だったけど、最近不意に魅力を感じなくなってしまった。危機感を覚えたといったほうがいいかもしれない。いいねの数の気にして夜も眠れないとかいうことは、なかったし、誰かから迷惑行為を受けたとかでもない(そんなことがあれば徹底抗戦だ)。

 

 じゃあ何が興味を失わせたのか。簡単に言うと精神的な疲労だ。

 あふれかえる短文大喜利に少しずつ嫌気がさして、どこを見ても誰かが何か文句を言っているような気がして、息苦しくなった。誰かがいらだっているのを見るだけならまだしも、その怒りに自分まで感染してしまうことが増えた。

 それからもう一つ、自分の好奇心がネットに振り回されていることに気付いたからだ。「トレンド検索」に甘えて本当に知りたい情報が何だったかも忘れてインターネットにおぼれていく自分がとてもかっこ悪いことに気付いた。

 

 それから、発信者としても限界を感じたのも理由の一つ。

 ぼくが言いたいことは、140文字ではぜんぜん足りない。

 一つのことを入ったら、ぼくは必ず全く逆の方向からも考えてみたくなる。そうするととても140文字では収まらないのだ。ツイッターには思考の結果しかつぶやかない。どこでなぜ、どのタイミングでそう考えたのか、本当はそれも大切にするべきだったのに、いつの間にかそういうのをどうでもいいこととして140文字の裏に隠したり、写真に託したりしていた。 

 いつの間にかSNSへの投稿しか文章を書くことがないという日が増えた。恐ろしくて、がっかりした。「文章書くの好きです・得意です」。小学2年生からそう言い続けて生きてきたのに、1000文字以上の理論の通った文章を書くのもおっくうに感じている。退廃だ、退廃だ!これは精神と思考の退廃だと、心のどこかで大騒ぎをしている声が鳴りやまない。

 

 ツイッターにつぶやくことは見返すことなく終わっていく。つぶやいたらそれで終わり、それ以上思考を深めることはなく、秒速で更新されるタイムラインを追う作業に忙殺される。それは水槽から少しずつ水が漏れだしていく感覚に似ていた。このままでは水槽は空っぽになって、ぼくのかわいい魚は、死んでしまう。そうなる前にこの思考の駄々洩れを、どうにかして止めなくてはと思った。

 

ということで、いざさらばツイッター

…と潔く言いたいところだけれども、ツイッターはぼくの箱庭なので、これからも運用していく。フォローしている人も大好きな人たちだらけだから、このまま閉じるにはあまりにも惜しい。ひとまずは、これまでのツイートを一日ずつさかのぼりながら消していく作業をして、実ったものを回収する。そしてまた新しい種をまく予定だ。

 

 今後ツイッターにつぶやくのは、磨いた思考の後に残った原石かもしれないし、コーヒーの出がらしみたいなものかもしれない。脈絡のない、嘘か本当かわからない言葉を並べることになるだろう。何が出てくるかはわからないけれど、やってみる。要はSNSの使い方を変えるという、それだけの話なのだけど、ぼくにとってはまるで故郷の改革を行うような気分なの。だからここに記念碑みたいな感じで、ここに書いておきたかった。

 

 今後ぼくはぐだぐだツイートを連ねて主張したりは日々のことをつぶやいたりしないから、そのあたりはどうかブログを読んでほしい。

きれいな「飾り」だけ見たいなら、どうぞ箱庭を眺めてて。