遠い夜に

とても遠い夜に来た。

月を追いかけて。あるいは野良猫がたくさんいる街を捜し歩いていて。

街の明かりが見えない場所を探して。先日降った雨の水たまりを探して。

 

とても遠い夜に来た。

あの日別れた人に、伝えていなかったことを思い出して。

電車に置き忘れたお気に入りの傘が流れ着いたはずの駅をたどって。

気づいたら、たくさんの本の上を歩いて。

 

とても遠い夜とは、さてどこのことだろう。

それは本当にあったかどうかも定かではない、だけど、記憶の底に張り付いて忘れられない夜のこと。

何もすることがない日に、そういう夜を思い出すと、遠い夜をさまよっているような気持になる。最近ではことさら、泊りがけの遠出を自粛「させられて」いるから、昔の夜のことを思い出してぼうっとすることが増えた。

 

わたしの記憶の中の最も楽しくて美しい夜は、地中海の真ん中に浮かぶ島国マルタ共和国で過ごした夜だ。2019年の夏、1か月間を過ごしたあの楽園のような島の夜。

 

 毎晩毎晩、銃声に似た破裂音がしていた。島に点在する教会が挙げている花火の音だった。ある日は東から、ある日は西から。泊っている宿から時々その一片を垣間見ることもできた。

 風が入ると気持ちいけれど、網戸がないのでとにかく蚊に刺されまくった。日本に売っているのとそっくりな蚊取り線香を焚いて何とかなったけど、まさか異国の地で日本の夏の香りをかぐことになるなんてなあ、と思った。

 

 野良猫がたくさんいるという街ーセントジュリアンを目指して夕方から沿岸をずっと歩き続けて、暗くなっておなかもすいて、結局その街にはたどり着けなくてバスで帰った、なんていう情けない夜もある。

 

 島の沿岸にはさまざまな大きさ・用途の船がおいてあって、それがさざ波に揺られている風景も好きだった。それ見ながら路上のベンチで一杯やればよかった。

 海のそばの遊歩道にはたくさんベンチがあって、明るすぎない街灯がまばらにあった。そこでアイスを食べたりピザを食べたりしながら談笑している人がたくさんいた。

 

人が心地よく過ごすために作られたみたいな、すてきな風景だった。

 

なんであんなに楽しかったんだろう。

後日考えてみて納得できたその理由は、 私のことを知っている人が一人もいなかったからだ。私がそれまでたどってきた経歴、身に着けた知識や技能は飛行機に乗る前に成田空港に置いてきた。何者でもない私は、とても自由だった。

帰りを気にしている両親もいない、もちろん門限もない。

 

 ああなんだ、もっと羽目を外しておくんだった。うんと遠い夜を旅しておくんだった。2020年以降こんなつまらない日々が続くとわかっていたら、きっと私はそうしただろう。

 

もう一つの私の好きな夜は、移動する夜だ。

 飛行機や空港で過ごす夜、夜行バス、まだ空が暗い時間に出発するキャンプ、夜行列車。すべて好きだ。なんだろう、あのわくわく感。

 暗くて危ない夜という時間、本能的には巣穴に帰りたくてたまらないところを、わざと不安定な状況に身を置く、そのスリルのせいだろうか。

 

移動する夜といえば。

 出雲まで鈍行を乗り継いでいった日の帰り、出雲から東京まで「サンライズ出雲」という夜行列車で帰ったのが楽しかった。

貧乏学生の一人旅だったので「のびのびシート」という最もランクの低い座席に座り、がたがた電車に揺られ続ける夜。全然眠れなかったけど、旅行中に撮った写真を眺めていたりしたらあっという間だった。

 

 これまた貧乏一人旅で四国に行ったときには、夜行バスを途中で乗り換えるというミッションがあってとても楽しかった。

 その乗り換えは、確か深夜3時くらいに、おいていかれたら心細すぎる山の中の小さな駐車場で地味に行われた。秘密で国境を越えようとしている難民のような気持になった。

 

とても遠い夜。

思い返せば返すほど、幻灯機で映し出す映像のような質感になって、本当にあったことなのかなと疑ってしまう。

そして、すてきであればあるほどその輪郭はぼんやりとして、つかみどころがない。

 

自宅で過ごす夜はここのところ、総じてぬるい。

会いたい人に会えない夜、一人で過ごすにはあまりにやりきれない夜、

逆に一人きりで編み上げるような夜、なめるように過ぎる時間を、丁寧に過ごす夜。

 

日常に埋まった無個性な夜に浸りすぎると、いろいろ鈍って都合が悪い。

早くまた新しい夜を旅したい。

 

今思っていることは本当にそれだけ。