もろもろの選考に通っている。

将来が定まらないままもんもんと、ふわふわとあてどもなく問題意識がさまよい。即興的には何かにとりくむことができても、長い期間をかけて醸成するような哲学のようなものが揺らいでいる。夏も終わりだ。気圧のせい?院試のせい?環境のせいにしたくなるけど、否、すべては言語化から逃げ続けている自分の怠惰によるものではと思う。研究発表をしてもなんだか煮え切らないし、わたしの発表だけなぜか散々にいじめられるということもあって、もう研究しね、やってらんねえ正解なんぞあるわけねえ、知るかこんなの、と、いらだちながら文献を読むのはとても骨が折れる作業であるし、読むたびに誰だそいつ、というのなのが出てくるから、常々自分の知識が浅いことを反省している。おかげで何にも論じることができていない。しにたい。

ついでに最近は災害続きで、西日本豪雨やら今回の台風やらで、日本の各所でいろんなものがぶっ壊れている。人間が作ったものの脆さを思い知る。システムも建築も崩壊の一途をたどっている。思想の面においても、就活ルールが撤廃されるだのAIがどうの、ハラスメントがどうのと、大きな価値観は揺らぎ崩れてゆくことが予測される雲行き。そんな世界で、今まで通りのビジネスが通用するとは思えない。均質でありながら多様であって、何が大切か、という答えは人によって全然違う時代がやってくる。その分かり合えなさを抱えながら、それでも人間は人間同士で生きていかなくてはならない。そんな社会の中で、今までみたいなルールとか、みんなが共有している(と思い込んでいる)規範は、もう意味がなくなる。人は完全に孤立する。ううん、よく言えば主体的に「個立」する。

最近、バイト先の店長に将来について聞かれた。「私は企業に入ってばりばり売り上げ稼ぐとかいうタイプじゃないんですよー。独立行政法人とかNPOとかがいいなと思っています」とゆるゆる答えた。

(教育系は、そのほうがやれることが多いというか、下手に教師になって学習指導要綱に縛られるのでは意味がないし、商業的なことに傾いた形態では教育として意味がないというか、教育はビジネスにするべきではないと思っているから、その選択肢もなし。大企業には興味がないというか、ハラスメントの温床のようなそんなところに行きたくはないと思っている。みんなにちょっとずつ責任があって、それがうやむやにされてしまって、結局上の人が責任を取らなくてはいけないというように複雑に入り組んだシステムにも、残念ながら賛同できない。大きな価値観は、平気で人を殺す。物理的にも、精神的にも。そんな社会が過ぎ去るまで、息をひそめていたいという逃げの気持ちと、変えなくてはという使命感のような気持もあるけれど。)

いちおうそこまで考えている。そうしたら、「でも、稼がなきゃねえ」といわれた。「生きてるだけでお金かかるんだよ。稼がなきゃだめだよ、技術を身に着けるとか」

なんだかものすごく腹が立ったし、そういう生き方は、浅はかだと思った。私が最もいやだ、と思う生き方だった。

 

ふうん、じゃあお金がなくなったらどうやって生きるの。

 

たぶんお互いに、腹を立てているし、浅はかだと相手も私のことをそう思っているのだろう。一人暮らしもしたことがない、実家暮らしでのうのうと生きている小娘の考えることなんざ、生きることのしんどさを少しも知らないに違いないと。そういう魂胆がよくわかる。おい、なめてんじゃねえぞ。

 

そんなこんなで、ルサンチマンとフラストレーションがないまぜになった、非常にアンニュイな気持ち。蒸し暑さも相まって、人間の形を保っていられないくらい。

そんなこんなでぬるぬると日々を過ごしているにもかかわらず某英語の試験の点数が100点上がったので、すこし元気を取り戻したりしつつ、金魚を飼い始めて何とか、精神的な面での生きる糧を得ようとしている。

 

なんでか知らないけど、書式を間違えて提出した大学院入試の書類選考に受かっていた。嬉しいけど、無理だろと思っていたから口頭試問、なんも考えてない。というか、口頭試問でいじめたくて書類選考通したんじゃないかとうたがうくらい。怖い。

二つ目。6月くらいに出した詩が、なぜか二次選考に通っている。「現代社会に対する叫びを」みたいなこと書いてあったから、「やってらんねえよこのご時世」という感じをちょっと気取って書いてみたら通った。全部で3作。そう、もう本気でやってらんなかった。

詩、だからなにより言葉がきれいじゃないと、というのにこだわると、まるで中身のないものができて、そういうのは本当に、言葉が集まっている意義がないと思う。印象派の絵画に似ている。そういうのはとても嫌いだ。自分の言葉に酔っている。回りくどく無意味に擬人法とか色の描写とか、これ見よがしに語尾にちょこっと独特な言い回しを加えたりするのは、見ているだけで反吐が出る。小手先で飾ってて中身がない。そんなのに比べたら、ギャルのほうがよっぽどポリシーがあって詩的だ。感情に切り込む的確な言葉でないと意味がない。ああ、それ言っちゃうの、という驚きが伴わなければ、何かを書く意味なんかない。

まあでも、誰かの目に留まって読まれたということであれば、わたしはまだ、自分の言葉をあきらめたくないと思ってしまった。

 

三つ目。好きな人をデートに誘ったらなぜかOKの返事が来た。大変ご多忙な殿方なので、あまり期待はしていなかったし、いけても夕飯くらいだろうと思っていたら、なぜか山に行くことになった。

山?もっと他にあったでしょ…。わたしは、無難に観劇やミュージアムも提案したが、「自然が多いところ」という彼の一言で、なぜか登山の企画となった。自然が多いというか、ほぼ自然、なんだけど…。彼は過度な人口の密集が苦手だし、雰囲気や演出をおちょくる傾向が強いので、確かに都内でのお出かけのほうが難しい。この間一緒に出掛けた時も、明治神宮に行くくらいだった、そういえば。たぶん作り物っぽいのが苦手なんだと思う。その気持ちはよくわかる。東京の造形物はみんなハリボテか量産品だ。そんなものの遊技場で翻弄されるくらいなら、自然に体を預けたほうが気持ちがいい。彼と過ごす時間は、そのほうがきっと充実するだろうと思った。

写ルンです持っていこう、たくさん写真をとろう。私の行動指針ともいうべき世界で一番、想いを懸けているすてきなひと。この人でなければ全く日々は楽しくないだろうなと思う人。驚きと癒しの源泉。その子が笑ってくれるなら、安心して日々を過ごせるなら私はなんだってしたい。一緒にいるだけでいい。飲み込みたいともものにしたいとも思わない。彼が私に夢中にならないことはなんとなくもうわかっているから、それには期待しない。けど、わたしといるときに「生きやすい」と思ってくれればいい、と思う。お願い神様、だれもなにも邪魔をしないようにしといてね。いろいろ億劫だけど、わたしその日までちゃんとがんばるわ。