2020-2021

 この記事は、2020年を振り返り、2021年ってこんな感じかな?と空想する、自分のための書置きだ。

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 2020年はまるでタイムマシンの中にいたみたいに、今までの自分の日常とつながりがない年だった。

自分が納得しているかいないかに関わらず、外出を自粛させられ、人と画面上で会話することが当たり前のようになった。国から10万円をもらい、レジ袋は有料になり、口紅の色はどうでもよくなった代わりに、無防備な顔には妙な恥じらいがつきまとうようになった。

 外出自粛の結果家にいることが増えたわたしは、家族全員分の食事と洗濯物の処理を頼まれ、ときに機嫌よく、またある時はこの世の終わりのように不機嫌に、それらをこなした。家族全員分の家事をこなすくらいなら、六畳一間のワンルームで自分のことだけ面倒を見て生活したい、そしたらどんなにラクで楽しいだろうということを、考えずにはいられなかった。だけど、コロナの影響を受けアルバイト収入を絶たれていたのだからそんなのは虫がいい話というもの。生活できる拠点があるということだけで、家族には感謝するべきだろう。

 大学の講義は原則オンラインとなり、学生定期の購入が必要なくなった。4月8日で止まった学生定期を見るたびに「こんなはずじゃなかったな」と思う。大学に通っていたころは講義のついでに友達と飲み歩いたり、映画に行ったり買い物をしたりということがごく当たり前にあって、それはいちいち親に報告する義務のないことだったのに。

 不要不急の外出が厳しく取り締まられる風潮になってから、今までほったらかしもいいところだった娘の外出に、親が介入するようになってきた。なぜ出かけるのか、相手は誰なのか、行先は安全なのか、それは絶対に行かなければならない用事なのか。

 「小学生じゃないんだから」と怒鳴って飛び出したい気持ちをとりあえず脇において、わたしは親を安心させるために、理由と行先を告げるようには務めた。が、本当のことを言ったのは三分の一くらいで、後は嘘とか、でっち上げだ。そうでもしないと、わたしの自由は守れなかった。自粛期間を経て、自炊なんかの家事も上手になったけど、嘘をつくこともまた、上手になったのだ。

 

 そんなふうに、親がわたしの行動に以前より介入するようになってきてから、都内に通う学生という身分の自由さを痛感した。わたしの日常は、世間的には不要不急な行動の寄せ集めで成り立っていて、しかし私にとってはすべて必要火急であった。無駄や徒労も含めて、出歩いて、人に会って、自分の気持ちの変化を感じることのどこが不要不急なんだろう。けれど、自分以外の誰かを説得できる大義名分を編み出すこともできず、悶々とその葛藤を抱えながら外出自粛期間を過ごした。再び感染者が増える今日もまた、あの鬱々とした日々を思い出してげんなりしている。

 わたしのほかにも、この葛藤を感じていた人はきっと多いと思う。「自分にとっては必要だけれど、世間からしてみたらこれは不要不急に当たるかもしれない」と、葛藤を抱えながら人に会っていたんじゃないかと思う。居酒屋で友人と話し込むところを直撃されている人のインタビューを連日眺めながら、だけど、彼らにとってはこれが必要だったんじゃないかと、想像する。人がやっていることを、他人が勝手に「不要不急」と指をさすことはできないはずだ。

 「多様」「個人」が一般的になった現代社会において、これほど多くの人が共通の課題に頭を悩ますことは、今後の人生の中で、あと数えるほどしかないだろう。そう思うとコロナ禍という現象はある意味興味深い。同じ物差しの上に置かれたことで、個人間の価値観の違いがはっきりした。仕事や学校なんかの社会的営みに覆い隠された人間の生活が、むき出しになった。他者への想像力はある方だという自負があったが、それが想像にとどまらず、現実味を帯びて目前に迫ってくる様子は、これから先、そう経験できることではないだろう。2020年は、確かに忌まわしい年でもあったけれど、そういう意味ではこれもまた人生に「必要」な年だったのだろうと受け止める。そう、私の人生に不要不急などないのだから。

 

 そんなこんなで、この目まぐるしい年は、今までの自分の日常とは思えない性質の一年間だった。通り過ぎる景色なんか見る暇もないまま、透明なパイプを一気に滑り降りるみたいにあっという間だった。そして着地した2021年、なんだか今までとはちょっと水質が違う世界に降り立ってしまった。ような気がする。

 

 この心境の変化には、個人的なライフイベントが大きくかかわっている。

 わたしは4月から長い長い学生生活に今度こそ別れを告げて、会社に勤める。業界研究などろくにしないまま、直感だけで選んだ会社(ドキュメンタリー番組制作会社)だ。務めた後のその先のこと、例えば結婚とか老後とか、そういうことは一切考えていなくて、文字通り「飛び込んだ」感じだ。そもそも、ダメ元のエントリーシートと採用面接だった。なぜ自分が採用されたのか自分でもわからない。し、そんな心持で仕事が務まるのかも自信がない。

 ともあれ、行き着いた場所である。これまでの乏しい人生経験を総括して、「ここかな」と思った着地点だ。社会のためとか家族のためというよりは、まずはこれまでの自分を後悔させないために、いろんなことを乗り切らなきゃいけない。

 この状況において思い出すのは、小学校の頃の図画工作の「白い画用紙」だ。小学生の頃、図画工作の時間に配られる白い画用紙が大嫌いだった。「書きたいものを自由に書いて」と言われたところで何もない。自分には自由な発想や独創性などないことや、自分の不器用さを痛いくらい感じて毎回いたたまれなくなった。

 わたしがこれからやろうとしていることはこれに似ているんじゃないかと思っている。新しく入る企業でどんな景色が見えるのか、どこへ行けるのか、誰と出会って、誰と親しくなれるのか。ここで何かしらの経験を得ることは、真っ白い画用紙に新しい世界の地図を描き、広げていくことなんだと、勝手に想像している。

 白い画用紙アレルギーはいまだに憎らしいほど健在で、新しい世界の地図、なんて言ってみたところで足がすくむだけ。そう、真っ白い画用紙は大嫌いだ。「でも、」と、その後にいつも呪文のように付け加える言葉がある。

 

 わたしは、真っ白い原稿用紙は大好きだ。言葉なら、文章なら、ちょっとは楽しく仕事ができる自信がある。負け惜しみかもしれないけど、大人になっていろんな人に会って、その人の癖とか個性、得手不得手を知って、何も「オール5」なんて目指すべき人間の姿じゃないことを知った。だから、わたしには画用紙を捨てる自由もある。もしかしたら原稿用紙になら、絵が描けるかもしれない。

 

 2020年の病魔を引きずったままの2021年が、どんな年になるのか、想像できるのは五輪中止の知らせ以外に何もない。そんな先行き不透明な未来でも、まだ生きようという意思は消えてない。ときに真剣に、ときにのらりくらり、きっとどうにか日々を続けていくだろう。

いつか、そんな毎日が、『悲しい時代でもぼくらは踊って過ごしたよ』と語れる人生の一部になりますように。

 

 

ゴッホ

ゴッホ

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金木犀の香りってググってもわかんないんだもん。


 押上の町、路地の中のごくごく客の少ない鉄板焼き屋で海鮮ミックスもんじゃを熱い鉄板の上におしひろげながら、彼は「え~、、うーん」と、唸っていた。

聞けば、巷でいうところの金木犀の香りがわからない、という。10月始め、姿は見えないのにやたら存在感のあるあのきつい香りを認知できないなんて、わたしには信じ難かった。秋ごろ重症化するタイプの花粉症であれば鼻炎で鼻が効かないことも考えられようが、そういうわけでもなさそうだ。
 今年の金木犀のピークはすっかり過ぎ去ってしまったので時すでに遅し。じゃあ来年にはどこか公園にでも一緒に行って、いやというほど金木犀をレクチャーしてあげようとおもった。箱にたくさん詰めて郵便でも送ろうかとも。

金木犀の香りってググってもわかんないんだもん。」

と、彼が言ったのが可笑しくて笑ったあと、Googleに占拠されていない世界がまだあることを知ってわたしは嬉しくなった。
確かに香りの情報はいくら言葉を尽くして説明されても、直接体感しないことには納得できない。そうか、まだまだGoogleをつかってもわからないことがあるんだ。

 「現代の社会、とりわけ資本主義は、例えば人がコーラを飲みたいと思ったときにすぐにそれが用意される社会を志向している」

 社会学の先生が言っていたことを思い出す。そんなテレパシーみたいな世界はありえないと18のわたしは冷笑したものだが、先生が言っていたことは間違っていなかったと思う。 

 大学生になってインターネットを使いこなすようになり、行動範囲も広がって、資本主義の怪物や亡霊が潜むと噂の東京へ足繁く通うようになった。そんな中で自分の欲望が先読みされたかのような体験もしたし、「これがあるならあれもほしい、これもそれも要る。必須というわけではないけどもあった方が絶対にいい」みたいに、一つの欲求が他の欲求を誘発することも経験した。

 ふと冷静になってみると、これまでの自分の選択の数々は、自分で選んでいると思いながら、実はそれは様々な消費主義的戦略によって選ばされていた。Googleはその欲望づくりに一役買っていると考えて間違いないだろう。Googleはわたしの誕生日やカード番号、趣味嗜好、よく見るサイト、最近のマイブーム、友達の顔写真や名前、いろいろなものを「知っている」。Googleにとって「知っている」ことがどんな有益な機能を果たすかは別として、ひとまずのところGoogleはわたしの個人情報を恋人や家族よりも正確に、リアルタイムに把握し続けている。

その膨大なデータからはじき出された結果が、日々ネットに出てくる広告だ。自分の欲望を見透かされているような内容が出てくることもあり、正直怖い。一方で、「知らなかった!」「こういうのほしいと思ってた」などと、その広告に救われることもある。ビッグデータは、人を消費へと駆り立てる資本主義の優秀な右腕だ。

 
 資本主義が人を幸せにするならわたしはいっこうにかまわない。事実、お金は人を差別しない(社会的差別によってお金が手に入らないことはあるけども、お金そのものが人を差別することはない。また、資本主義であればお金さえ払えば階級にかかわらず良質共に金額に見合うだけの財やサービスを受け取ることができる仕組みにはなっている。繰り返し注釈するが、それが手に入る社会資本・文化資本を持ち合わせているかはまた別の話だ)


 ただ、そうなったとき―情報が欲求を先回りし、人々の欲望を形作るようになったとき―に私が最も恐れているのは、人のクリエイティビティや、無知の中で何かしようとあがく力が失われてしまうことだ。

 強大なパワーを持つ資本主義の中で人は、その流れを止めないよう働き、消費し消費される。オリジナリティやエゴや個性は生きづらさ。そんなものはとっとと捨て去り、さっさと資本主義の歯車に乗ってしまったほうがよっぽど生きやすい。昨今の資本主義はさらに一歩進んで、オリジナリティやエゴや個性も「多様性」の名のもとにそれすらも洗い流そうとしている。さて、どこまでも私たちを逃してくれない人類の発明に、立ち向かうことはできるんだろうか。



金木犀の香りってググっても分かんないんだもん」

 

友人がぽつんとこぼしたこの言葉が、わたしは大好きなのと同時に、こういうところに資本主義に立ち向かう方法が隠れているように思う。嗅覚、味覚や触覚など、文字と画像だけではフォローできない情報(いずれそれらも調べられるようになる気がするが…)を見つけていくことは、最も簡単なテクノロジーへの抵抗だ。

―これだけだと少し原始的だし広がりがないので、例のつぶやきの中の「わからない」という言葉に注目して論をもっと遠くへ放り投げてみよう。

 

資本主義×情報社会では、ほしいものがほとんど手に入る。すぐに手に入る。わからないことがすぐにわかるようになる。

そんな便利な世界で生まれる自分の「わからない」「知らない」を、もっと大切にした方がいい。「わからない」という感覚は、最も身の丈に合ったリアリティを持っているからだ。

そして、後はその「わからなさ」をひたすら埋めていく作業の繰り返しである。自分の記憶、経験やふと見た夢や、人間関係を総動員して考える。考えた結果、正解を突き止めたとして、それが正しいかどうかは、どうでもいい。本当に自分で考えたことならば、他に参照できるものなどあるはずもなく、答え合わせの必要がないからだ。(こうして生まれる個々人の差異こそ、私は、多様性と呼ぶべきものなのではないかと思うのだ。)

 

そんなことができたらようやく、人間になれたと思えるだろう。

そしてそれはきっとこの社会において「何者かになる」ことよりも、ずっと難しい。

 

 

 

 

隣の席の女が言うことには

 

 「今日私があなたの家に行くこともそのまま泊ることも、神様が決めてるのかな?」って聞いたら、あなたどんな顔するかしら。あなたがどう答えようと、あたしは絶対、「あたしが決めたことだもん」と言い張るつもりでした。

 私は行儀のいい娘だから、今は家族と住んでいて、べったりと親に監視されているような気分なの。「今日はどこへ行って誰と会います、こんなことをして遊びます。夕ご飯はいりません、日付が変わるより前には帰ります。それでは行ってまいります」と言わないと家を出してもらえない。変な感染症が流行ったせいでもっと出かけづらくなった。家に居たくない日、一人で眠りたくない日、誰にだってあるでしょう?そんな日でもあたし、自分の部屋に繋がれたままなんです。

 誰かに会いたくてたまらない日には野良猫になる夢を見ます。大抵夜で、人っ子一人いない寂しげな道を歩いている。でもぜんぜんみじめじゃないの。どこへ行こうか考えている間はとても楽しいから。やっと自由になれた!どこへでもいける!っていう気持ちが、体中の毛の一本ずつから滾っているような感じと言えばわかるかしら。

 しばらく歩いていると、街灯が伸ばしたあたしの影の先に、誰かのつま先が見えるのです。誰だかは、いつも目覚める頃に忘れています。・・ふふ、自分だと思ってきいていてよ、いい気分だから。・・それであたしはその人の足元へ、しとしとしとっと歩いていくの。待ちかねていたようなため息は、あたしのなのかその人のなのかわかんない。次の瞬間には大好きなその人の腕の中にいて、キスの雨、ほおずりの嵐。「かわいいね、連れて帰っちゃおう」っていたずらっぽく笑う顔にあたしもまんざらじゃなくなって、尻尾をくるん、ひとまわし。ああもう離れません。

 ところで恋って、難しくありません?あたし、一人の人だけをずっと好くような恋の仕方は下手で、いつも諦めてしまいます。繰り返すうちに悟ったの。流行り病のような恋の寿命は一年。慌てて女ざかりを売り出して、すっかり全部食い尽くされたら、後は奉仕をするだけ。そんなだからあたし、付き合う前から「この人とは長くて一年」と決めてかかっていた。我ながら質が悪いわ。ちなみにだけど、別れようと思って、唐突に別れを切り出してもダメ。記念日には会わないことから始めるといいとだんだん冷めていくから試してみてね。・・ちょっと、口の端だけで笑わないで頂戴。雑な恋の仕方をする女だ、ですって?ちょっと待ってよ、そんな風にしか愛させてくれなかった相手にも問題があるとは思わない?死んでも離れないって思わせてくれる人と会えてたら、もっとちゃんと丁寧な恋の所作を学べたはず。素質はあるのよ、あたし。あ、また笑った。

 ・・続きを聞いて。

ダメ、と思った男は躊躇なく振るし縁を切るのは、誰かがいっていたこんな言葉に影響されているからです。「女が男を乗り換えるのは、植物が手狭になった植木鉢を変えるのと同じこと」。なるほど、養分も吸い尽くして根詰まりを起こしたら、一回り大きい新しい鉢に変えなきゃいけないものね。女だってどんどん大きく深くなるもの。自分の深まりに限界を感じたら、一緒にいる人を変えたほうがいいに決まってる。あたしはやどかり、植木鉢。

 ・・だけど鉢がないと生きて行けないんじゃあどうしようもない。どっしり地面に根を張れるようになったら一人前というわけかしら。そしたら根っこが詰まる心配がない代わりに、どこへも行けなくなるのね。そう思うと、腹が立つやら寂しいやらで、どう生きていいのかわからなくなる今日この頃です。

  こうも思う。媚びる恋は中学生までで終わりです。大人になったら選ぶ恋をしなさいと教わりました。あたし、ちょうど思春期に、気立てのいいにこやかでおしとやかな友達がべらぼうに男にモテるのを見て憧れていたので、そうなりたいと思っていたの。いつもにこにこ、嫌われませんように、叱られませんように、褒められますように。ひょっとしたら服従するのも大好きでした。その頃の漫画とかケータイ小説では流行っている王子さまはみんな決まって「俺様」系だった。読み返すほどに目も当てられない描写と痛々しい台詞に当時とは別の意味でクラっと来るようなやつね。今じゃどんなこと言われたって命令されたって、「そんなわがままを聞き入れるのは世界であたしだけよ」と、構えて見せる余裕がある。実際甘えてくる人は可愛くて好きなんだから。

 

 そういえば最近、気まぐれでおみくじを引いたの。運勢は大吉で、万事うまくいきそうな気がしたのに、恋愛のところに「一線を越えるな」って書いてあって、なぜ神様はそんな意地悪を言うのかしら、と破り捨てたくなった。そんなおみくじはいくら総合運が大吉でも大いに凶でしかない。あたしにとっては、好きなったらそれはもう一線超えたことになるんですが、そういう場合はどうしたらいいのですか。恋の線ってどこにあるんですか。ねえ、どこにあるんですか。

 

 ああ、なんだかあくびがでてきた。

 ろくでもない恋ばかりして疲れたから、ほら、今日はあたしを拾ってよ。

 

 

「エモ」という感性とその背景

 

「だらしない男女関係にタバコやら夏やらが絡んだとたん「エモい」と形容する価値観にきちんとキショいと思えるようになってからが大人のはじまり。」
というツイートを見た。
近年若い人たちが感情を説明するときによく使う言葉「エモい」に対する抗議の当該ツイートに、わたしは確かにそれは一理あるよね~と思いながらいいねをした。

当該ツイートに連なるリプライは「エモ」不支持派が多いように見えた。日本語にはもっと様々な感情を表現する言葉があるのに一言でエモだと片付けるのは感性の衰退だと警戒する人、だらしないだけのことをもっともらしく「エモい」と名前をつけて愛でるなんておかしいという人、チープで陳腐な価値観だとエモ自体をディスる人、などなど。

 うん、確かにそれらにも一理ある。が、今まで使ってきた言葉では説明できなくなったからこそ「エモい」という感性が生まれたと考える方が自然なんじゃなかろうか。わたしがこれからするのは「エモ」がいいか悪いかではなくて、なんで「エモ」が生まれたんだろうという話だ。

 その時代によって新しい感性が生まれることはごく自然なこと。例えばずっとずっと遡れば女流文学栄えた平安期には、女の人の日記や文学作品から「あはれ」や「をかし」という感性が生まれた。室町時代になればワビサビという文化様式が根付いたし、江戸時代には庶民によって「粋」という感性が育まれた。何もそんなに遡らなくても、平成の時代だけでも「萌え」や「カワイイ」という感性がより洗練された時代だったことは記憶にあたらしい。

 現代社会に目を向けてみる。多くの学者が述べるように、現代社会の進歩のスピードは秒速。とりわけインターネットやスマートフォンSNSの発達でコミュニケーションの取り方は大きく変化した。人と人との間で取り交わされるコミュニケーション様式が変化したのだから、人の人への感情が刷新することは至って自然な流れだ。個人的には好きではないが、エモいという感性はポップな対人関係の影響を強く受けた感性なのではと考える。

 

 と、いうわけで、わたしは「ああ、令和はエモの時代なんだなあ」と思いながら過ごしている。人によってエモ論は数々あるだろうけど、ここではわたしのエモ論に耳を傾けていただければ幸いだ。
 まずわたしがエモの親戚としてまず思いついたのが「切ない」という感情だ。しかしこれだとちょっと重たすぎる。エモはもっとライトというか、どこにでもありそうで、ひょっとしたら自分の身にも起こりそうなちょっとした感情の歪みなのではないかと思う。「エモ」はちくりと心を刺す(しかし絶対に致命傷にならない)痛みであり、それはスナップ写真のように何気ない静止画的なものだ。妬んだり執拗に追い回すとそれはメンヘラ、病みといった別の感性に取り込まれていくが、エモはあくまでじんわりと傷心を味わうだけで、それ以上進行しない。ほんの少しの間その出来事や間柄に陶酔する余裕があるくらいの痛みがエモである。


 この感情が生まれた背景は、なんだろう。わたしはごく個人的な妄想にすぎないけれど、大きく分けて3つの社会の変化があると考えている。

 ひとつには、いつでもどこでも繋がれる人間関係が可能になったことだ。かつては「この人を失ったらもう会えない」と考える要因がいくらでもあった。それは越えられない距離だったり階級差だったり、コミュニケーションツールの不足だったりした。わざわざ痛みに酔わずとも、人を思う痛みを抱きしめることができていた。しかし現在は人との間柄を引き裂く物理的な課題はほとんどクリアされ、一部の特定の社会を除いてはほとんど自由に人と会えるようになった。会わなくてもSNS等でつながっていることができるため、「もう会えないかもしれない」と思う切迫感を抱くことがほとんどなくなった。おそらく多くの人間関係が「会おうと思えばいつでも会える」状況に置かれているだろう。

 

 次に、「みんな違ってみんないい」が浸透した個人社会の影響も見逃せない。個人ずつが多様性を自覚し始めた社会においては、「大衆から称賛を得たい!」という大きな夢は承認されづらい。それよりもちょっとニッチで誰もやったことがないような、より個人的で独創的な試みが話題になる。小さなコミュニティを作ることも簡単で、そこで成功できればある程度の承認欲求を満たすことができる。その反面、なにはともあれ二言目には「みんな違ってみんないい」でまとめあげられる世界でもある。


 最後、それに追い打ちをかけるのが、お金をかければ大抵のものが手に入る資本主義だ。お金を出せば大抵のものが手に入るし、望みがかなう。容姿のコンプレックスは資本で解決することができる。モノのレンタルならまだしも、感情や関係性をレンタルするサービスも増えてきた。資本に還元できないものを思い浮かべるほうが難しい。資本によって日々の不満や不安は可能な限り取り除くことができるのだ。(現代社会のみんながみんな資本主義のプレイヤーかどうかはさておき)

 

 ここに挙げた社会の特徴、リベラルな人間関係や個人主義、そして資本主義という要素は、痛みやつらさが丁寧に取り除かれた社会を形成する。エモという感性が生まれた背景には上記のような満たされきった痛みの少ない社会の構造があり、エモとはそんな社会の中で無理やりにでも自分の「生」に必然性を付与したいがために生み出された感性なのだとわたしは考える。このまま、満たされ切った社会でどんどん生きる感覚を奪われ続けるくらいなら、自覚的に痛みを感じてしまおうというわけだ。

 だから「エモーショナル」、「感情」「主情的」なのである。その人の内面に湧き上がる、その人にしか味わうことができない「感情」を自分のものにしていこうとする、そういう心の働きこそが「エモ」なのだ。それは精神的な自傷行為でありながら、ありふれた人生を引き受けるために必要な感性でもある。(一方で、個人的な感情を「エモ」という言葉で共有可能にしたのは大発明なような気もする。例えば最初のツイートの「だらしない男女関係」が示す内容は様々だが、「エモ」が何たるかを知っている人同士のコミュニケーションでは「エモいよね」というだけで「ああ、エモいね」となる。たとえそれを経験してなかったとしても、だ)

 

 さて、自分自身が「エモ」に陥ったことがないのでこの文章のほとんどが憶測や偏見に満ちている。証拠も参考文献もないので、突っ込みどころが満載だ。ときには、そんな文章を書いてみたくなるんだよなあ。

 わたしが「エモ」という言葉を初めて聞いたのは2年前。その頃はまた奇妙な言葉が出てきたな、とだけ思ったが、最近音楽や写真を評価するキーワードとして「エモい」という言葉を頻繁に目にするようになり、気になり始めた。「エモい」は、「やばい」などと同じように定型化していくのか、死語になるか、どっちだろう。まだまだ発展途上なこの感性は、いったいどこまで育つのかな。

 

 

さらば140文字の思考

 ぼくは高校生の頃からツイッターを使っている。

 高校生のぼくにはクラスに友達がいなかったから、ツイッターで知らない人からいいねがもらえるのとかがとても嬉しかった。多いときでは3つくらいアカウントを持っていて、いろんな人をフォローしていた。世界にはいろんな人がいるなと思った。高校はとても狭いところだったから(物理的にも質的にも)、SNSが大好きだった。SNSの中では田んぼの真ん中にある高校に通う女子高生など取りに足らない存在だし、ほしいとおもったときには狙い通り「いいね」がついて、つかの間のスター気分を味わったりもできた。

 

 大学生になってもツイッターは続けていた。相変わらず大学でも友達は少なかったので、ツイッターでのコミュニケーションはある意味救いだった。ぼくの趣味アカウントは一部の人に人気があったみたいで、「君も読んでいたの?」という人が目を通したりしていた。

 

 中学時代に不仲になった友達から嫌がらせを受けてアカウントを変えたけど、通算するともうすぐツイッターと付き合い始めて10年になる。家族の次に付き合いが長いのがSNSだなんて、すごく今っぽい。ああ、「ミレニアル世代」とか「Z世代」ってそういうことだなあと自分のことながらびっくりする。(アレクサが最初の親友!SNSが幼馴染!なんてのも、もう全然驚かないね)

 

 そんなツイッター愛用者だったけど、最近不意に魅力を感じなくなってしまった。危機感を覚えたといったほうがいいかもしれない。いいねの数の気にして夜も眠れないとかいうことは、なかったし、誰かから迷惑行為を受けたとかでもない(そんなことがあれば徹底抗戦だ)。

 

 じゃあ何が興味を失わせたのか。簡単に言うと精神的な疲労だ。

 あふれかえる短文大喜利に少しずつ嫌気がさして、どこを見ても誰かが何か文句を言っているような気がして、息苦しくなった。誰かがいらだっているのを見るだけならまだしも、その怒りに自分まで感染してしまうことが増えた。

 それからもう一つ、自分の好奇心がネットに振り回されていることに気付いたからだ。「トレンド検索」に甘えて本当に知りたい情報が何だったかも忘れてインターネットにおぼれていく自分がとてもかっこ悪いことに気付いた。

 

 それから、発信者としても限界を感じたのも理由の一つ。

 ぼくが言いたいことは、140文字ではぜんぜん足りない。

 一つのことを入ったら、ぼくは必ず全く逆の方向からも考えてみたくなる。そうするととても140文字では収まらないのだ。ツイッターには思考の結果しかつぶやかない。どこでなぜ、どのタイミングでそう考えたのか、本当はそれも大切にするべきだったのに、いつの間にかそういうのをどうでもいいこととして140文字の裏に隠したり、写真に託したりしていた。 

 いつの間にかSNSへの投稿しか文章を書くことがないという日が増えた。恐ろしくて、がっかりした。「文章書くの好きです・得意です」。小学2年生からそう言い続けて生きてきたのに、1000文字以上の理論の通った文章を書くのもおっくうに感じている。退廃だ、退廃だ!これは精神と思考の退廃だと、心のどこかで大騒ぎをしている声が鳴りやまない。

 

 ツイッターにつぶやくことは見返すことなく終わっていく。つぶやいたらそれで終わり、それ以上思考を深めることはなく、秒速で更新されるタイムラインを追う作業に忙殺される。それは水槽から少しずつ水が漏れだしていく感覚に似ていた。このままでは水槽は空っぽになって、ぼくのかわいい魚は、死んでしまう。そうなる前にこの思考の駄々洩れを、どうにかして止めなくてはと思った。

 

ということで、いざさらばツイッター

…と潔く言いたいところだけれども、ツイッターはぼくの箱庭なので、これからも運用していく。フォローしている人も大好きな人たちだらけだから、このまま閉じるにはあまりにも惜しい。ひとまずは、これまでのツイートを一日ずつさかのぼりながら消していく作業をして、実ったものを回収する。そしてまた新しい種をまく予定だ。

 

 今後ツイッターにつぶやくのは、磨いた思考の後に残った原石かもしれないし、コーヒーの出がらしみたいなものかもしれない。脈絡のない、嘘か本当かわからない言葉を並べることになるだろう。何が出てくるかはわからないけれど、やってみる。要はSNSの使い方を変えるという、それだけの話なのだけど、ぼくにとってはまるで故郷の改革を行うような気分なの。だからここに記念碑みたいな感じで、ここに書いておきたかった。

 

 今後ぼくはぐだぐだツイートを連ねて主張したりは日々のことをつぶやいたりしないから、そのあたりはどうかブログを読んでほしい。

きれいな「飾り」だけ見たいなら、どうぞ箱庭を眺めてて。

 

 

 

 

 

あの日のタコへ

 最近興味あるものはなんですか?

 

ある日突然、知人にそう訊かれて、答えに窮してしまったが、今では胸を張って堂々と「タコに興味があります」と言ってみたい。

タコの驚くべき知性に関しては既にちらほらと話題になっている。閉じ込められた瓶から脱出したり、水槽に取り付けられている電球を破壊してショートを楽しむタコもいるという。

 

最近水族館へ出かけて、水槽でじっと動かずに違和に張り付いているタコの姿を見た。何を考えているかわからない目は(基本的に水中に居るものはないを考えているかわからないが)しばらく眺めていると可愛らしくも見えてくる。眺めていると、そのタコが刻一刻と色を変え続けていることに気付いた。

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鴨川シーワールドのタコ

えっ?タコって色を変えるの?

色を変える動物なんてカメレオンと水中の大きなイカジャイアント・カトルフィッシュというらしい。たぶん、自然系ドキュメンタリーで見た)しか聞いたことがなかった。まさかタコも色を変えるなんて。

 

■人間の偏った想像力を超えるタコ

 ピーター・ゴドフリー=スミスによる著書『タコの心身問題』は、タコの不思議な生態について大きな愛情をもって書かれた本だった。まるで著者と一緒に海に潜っているような気分になれる本なので、夏にぴったりの一冊であるともいえる。表紙のタコもカッコよく、本棚に置いておいても、棚に飾ってもよく映える。

 

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机上の飾り棚は今日もにぎやか

 

 タコは、身体のいたるところに知覚・反応する機能を持っている、分散的な感覚で生きている生き物だそうだ。例えば人間は脳で知覚し、脳から指令を出して行動しているが、タコの場合は足には足に、皮膚には皮膚に、それぞれ知覚する機能があって、そんなバラバラな状態で世界を見ているらしい。タコが色を変えるのは、タコが頭で考えて色を変えているのではなくて、光の状況に合わせて皮膚が勝手に変色していくという。

 

 自分の感覚器官のいたる所に「知覚」が点在しているタコの感覚を想像すると、自分の体のことが急に気になりだす。

 例えばお腹に入った食べ物の味を、舌で感じるのではなく胃袋で感じるのだとしたら?暑さや寒さを感じるのが皮膚だったとしたら、それに応じて表皮が…例えば固くなったり、汗よりも粘りのある冷たい膜に覆われたり、するんだろうか。

 目で見ているものだって、例えば今は顔についている二つの目からしかみることができないが、もしタコのように全身で知覚する生き物だったとしたら、身体のどこかにもっとよく見える目を得ることがあるのかもしれない。 

 

 それでなんだか、私は人間の想像力の偏った豊かさを反省した。

 なんにでも人間は自分の感情を投影しがちだが、それが大間違いであることを、タコは教えてくれる。たしかに路上の猫とか蝉とかに人間の感情を重ね合わせてその動物の「気持ち」を邪推することがある。が、それは全くの間違いだったりするのだろう。

 

 余談だが、地上で生活する動物に関しては、なんとなく仲間という感じがするが、水の中の生き物は特に想像する甲斐がある。例えば、魚は人の体温でやけどをするとか、胃を持っていない金魚は消化不良を起こしやすいとか、そもそもえら呼吸であることとか、水の中の生き物の特別感は別格だなと思う。

 

■ちぐはぐなタコみたいに生きたい

 通常生き物は、目の前に物体が現れると、まずそれが自分にとって脅威ではないことを確認し、次にそれが食べられるものであるか確認する。人間以外の生き物の場合、脅威でもなければ食べ物でもないと分かった場合、興味を失うことがほとんどだ。しかしタコは物体に対して好奇心を示し、おもちゃで遊ぶ子どものように、その物体をいじくりまわすことがあるらしい。(カワイイ!)

 

 なぜ「好奇心」という複雑な感情のようなものが生まれたのか。タコをはじめとする頭足類は、殻を捨てたことにより巨大な神経系を形成し、複雑な知覚や動きを獲得したから、ということだそうだ。

 しかし単独で生活する社交性のない生き物であり(本にはオクトポリスというタコが集住する事例について書かれているが、それはタコ研究界においては新発見)、そんな複雑なコミュニケーションをとる必要はないとされている。…というかタコはタコ同士のコミュニケーションに関しては壊滅的な「コミュ障」ともいえるかもしれない。なぜなら、自分の体の色は変えるくせに色の識別はできないときているからだ。ではなぜ体の色が変わるのか?一つは擬態であることは間違いないが、著者のピーターはこのような頭足類の色の変化は「彼らのつぶやきである」と説明を加えている。

 

 もう一回水族館に行って、あのタコに聞いてみたい。

ちぐはぐで生きづらくないんですか?

 

 だが、そのちぐはぐ加減がいとおしい。

そんなに非合理的でも生きていけることは、人間にとってある意味ちょっとした救いでもあると思うのだ。タコが自分の体の色を変えるのは最低限の擬態のためであって、仲間とのコミュニケーションのためではない(だってタコは色を認識できないのだから)。

別に誰に見られていようといなかろうと、ひとりでにふわーっと体の色が変わってしまうなんて、タコはなんて自由で可愛らしいのだろう。

 そんなつぶやくような身体の動きや、服装は人間に可能だろうかと考えると、がぜんタコがうらやましい。私もそんなふうに、「つぶやき」を言葉ではない方法でほろほろとこぼしながら生きてみたい。と、無理だろうなと思いながら妄想してしまう。

 

■それぞれの賢さ

 まるで海を回遊するみたいな本とともに過ごした一週間だったわけだが、この本を読み終えて他の生き物の知性にも興味がわいてきた。

 例えば鳥の求愛、群れる蜜蜂あるいは蟻の社会性、イルカのコミュニケーション等々。人間からしてみればトリッキーな彼らの習性や生態は単純にトリッキーであるだけでなくて、様々な環境に適応してきた進化のバリエーションなのだとわかる。そして人間が言葉を手に入れ、道具を生み…といったことができるようになったのもまた、進化の一過程に過ぎず、特別なことでも何でもないと思える(もちろん他の生き物よりもずっと早さも質もずば抜けているけども)。

 

 人間は、人間以外の生き物を見て「あの生き物はその生き物よりも賢い」とか、「あの動物は人間でいうと3歳児に相当する知能がある」という言葉で動物の知性を賛美する。これはあまりに人間中心のものの考え方だ。

 人間はそれを同じ人間にも適応するときがある。その人が携わっている学問や職業・所属を見てその人の知性や能力を判断することがある。が、そんな乏しい人の見方は何が面白いのだろう。その人にはその人がたどってきた知性の道筋があり、それは人によって異なる。その表現方法も違えば、知性が垣間見える瞬間も個人差がある。知性があることとカリスマであることは同義ではない。

 そんなことをほえほえと考えてたどり着いたこと。

「多様性を認める」ということは、認めるなんてもんじゃ足りないくらいで、「個人の知性の奥深さを味わう」ことなんだろうと思う。

 

■私は人間が大好きだけれど、忘れないでいたいタコのこと

 タコにほれ込んではいるし他の動物に興味はあれど、わたしは人間が好きだ。感情が豊かで時間の感覚があり、それゆえ思い出や記憶があり、執着や嫉妬もあり、悩んだり迷ったりする、そんな複雑な人間という生き物が、私は大好きだ。

 一方で、この本が教えてくれた自分と全く異なる感覚を持つ生き物に対する想像力も忘れないで居たいと思う。どうにもうまくいかない!となったら、タコみたいに力を抜いて、ぐにゃりぐにゃり心の赴くままに体を動かすのも悪くない。もちろん、体の各部位に点在するタコの感覚を想像しながら(タコ式瞑想?)。

 

そんな両極を抱えて生きていれば、忙しさに埋もれて見えなくなった逃げ道や休憩場所がちょっとずつ見えてくるんじゃないかなと思うのだ。

 

 

 

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別れる女には音楽を教えておきなさい。

 

 何気なく入った洋服屋さんでクラブミュージックのカバーが流れた。どこかで聞いたことがある曲だなと10秒間考えて、それが以前付き合っていた人がわたしに勧めた曲だったことに気付いた。

 人の好みに染まりやすいわたしは、その人勧めてくれる曲ばかりを聞いていた。クラブカルチャーに身を浸していたその人が進めてくるのは大抵クラブでかかっているような洋楽だった。クラブに行ったことがないわたしは、曲と、その人の話から怪しいダンスフロアを想像することしかできなかった。別に行きたいとは思っていなかった。

 その人と付き合っていた時、わたしは成人したての女ざかりだった。外泊はだめだと言われていたにも関わらず、お泊りを強行したことが一度だけある。黙って、終電を逃したことにするつもりだった。我ながら相当安直だ。

 その晩のバーでDJが流した曲が、Jonas Blue のMama。「今日の君にぴったりの曲だね」と彼は言った。妙に耳当たりのいい曲だったので、すぐに気に入った。向かい合って話していては相手の声が聞こえないくらいの爆音でその曲が鳴っていた。わたしが普段使っている路線の、一番西の街にある小さなバーでのこと。

 

翌朝帰る電車で、その曲をずっと聞いていた。

「ママ、ママ、そんなに気にしないで。」

両親から大目玉を食らうことはわかっていた。その曲を聞いていると、自分は間違っていない気がしたので心強かった。お守りを握りしめるみたいに何度も聞きいた。

初めて行く街で、危ない綱を渡っているような夜、頼れるのは彼だけ。そんな彼と、夜の真ん中で見つけた曲だ。そんな風に思ってたことだって、いまでも鮮明に思い出す。

「ママ、ママ、そんなに怒らないで」

かっこわるくあがいても、わたしは大人になりたかったのだ。

 

Mama (feat. William Singe)
Mama (feat. William Singe)
  • ジョナス・ブルー
  • ダンス
  • ¥255
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 なにはともあれ、その日たまたま入った洋服屋さんで他愛ない洋楽に元カレの思い出を突きつけられてしまって思わず苦笑するなんてことができるくらい、わたしは大人になれたのだ。別に今更後悔したりつらいことを思い出したりはしないけど、想像以上にいろんなことを思い出したから驚いた。音楽と記憶は本当に仲が良い。

 

 元カレの件に限らず私が聴く音楽は、ほとんど他人に依存している。人に勧められれば、気が向いたときにYouTubeApple musicで検索して聴く。気に入った楽曲ができればしめたもの。どんどん検索してプレイリストに投げ込んでいく。こだわりをもって音楽を聴いている人は、わたしのこんな曲の聞き方を節操のない聞き方だと思うだろうか。


 人の好きな音楽の話を聞くのが好きだ。音楽を聴くとその人の好みがだいたいわかる。自分との相性もだいたいわかる。WANIMAを勧めてくる人とは距離を置こうと思うし、ジャニーズやアイドルを勧めてくる人には挨拶がわりにそういう話題を振ろうかな、とか。Official髭男dismやあいみょん星野源、米津玄師などなど最近テレビを占領している音楽を勧めてこられた場合は、プレゼンテーション次第で相手の熱量をはかりたい。「いいよね」くらいのテンションであれば興醒めで、わたしと同じ日和見な人なんだなと思って、もうその話はしたくない。


 音楽の話は、オタクっぽいほうがおもしろい。歌詞について、フレーズについてはもちろん、アーティストの生き様、ライブの舞台裏、バンドの解散秘話、アルバムの曲の並びについて、時代背景……思った以上に音楽については、語ることがあるように思う。

……と、気づいたのは、音楽に詳しい友人と知り合った最近のことだ。最初、その友人が何をいってるのかよく分からなかった。彼が音楽について話すときの「音楽」とわたしが普段聴いている「音楽」はなんだか少し違う気がしたからだ。歌うたいの彼にとって、歌や音楽はわたしが思っている以上に自分の体にも心にも近いもののようだった。

 わたしは最近彼のこてこての音楽の話と、その人が書いた曲と、その人が勧めてくれる曲を聞いて、ようやく何を言わんとしているか分かりかけてきた(まだ全部はわからない)。そしてその頃には、テレビから流れる音楽がとても退屈になっていた。

 その人の家にはレコードプレーヤーがあって、わたしはそこでレコードを聴く時間がとても好きだ。ジャケットがやたらかっこいいレゲエ、ビートルズブランキージェットシティ、中島みゆき。聴いたのはそこまで。

棚には他のアーティストのレコードもたくさんある。たくさんといっても、気持ち悪いくらい節操もなくたくさんというわけではなく、ここにあるのはお気に入りばかり、といったラインナップなのが素敵。わたしは彼の簡潔な棚も好きだったりする。

 

 彼と出会わなければ、レコードなんて一生無縁だっただろう。レコード屋なんて絶対に入らなかった。現在、音楽を聴く手段と言えばCDやストリーミングもあるというのに、やたら大きくて邪魔っけなレコードが、一部では人気な理由が分からなかった。しかしまあレコード屋を訪れてみると、なるほどこれは家に置いておきたいかもと思うジャケットの多いこと多いこと。帰ってから何気なくアマゾンでレコードプレーヤーを検索して、だいたい一万円くらいあれば手に入るのか…と試算する自分がいた。


 盤を出してターンテーブルに置く彼の静かな手つきを横で眺めながら話を聞く。
「アナログはいいよ。飛ばしたり早送りしたりできない。かけたら最後まで聞かなきゃいけない。だからレコードつくるときって曲の順番とかすごく気にして作るんだよ」


 最近では彼が教えてくれたアーティストの曲ばかりを聞いている。

すっかり自分の日常に取り込んでしまった今はそんなに意識することがないけど、例えば何年か経ってもう一度この曲を聞いたら、彼のことを思い出すのだろうか。

部屋の匂い、ソファに座っているときに見える部屋の風景、夜道の散歩、西瓜をグーパンで割って食べたこととか、代々木公園で夕陽を見たこととか。

 楽しみ半面、怖さ反面。出会わなければよかったと思うかしら。あの頃に戻りたいと思うのかしら。出会えてよかったと思うのかしら。

彼とは友達だから、よほどひどいケンカをしなければ決別することはないだろうと思うけど、何が起こるかわからない。

日々はわたしたちからいろんなものを少しずつあるいは唐突に奪う。自分の記憶力だけでは足りないから、わたしは音楽に頼ってしまう。

 

 

 

別れる男に、花の名前を一つ教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。と川端康成は言った。

別れる女に、音楽を教えておきなさい。一つとは言わない。

花ほど確実ではないけれど、心に残ってしまうと、簡単には捨てられないものだから。

 

ダンデライオン
ダンデライオン
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