人生の楽しいことはもう全て終わってしまったような気がした。急な環境の変化を目前にして、過剰に不安になっているだけかもしれない。社会に対して過剰な恐怖心があるからだろうか。世界のことを全く疑っていなかった。自分がそうであったときは対して気に留めなかったのに、小学生や中学生、高校生の、一心に自分が所属する小さな小さな箱庭のような世界に没頭していく姿を見ていると、そのひたむきさに泣き出したくなる。もう全てが終わるのだ。これから私は社会に回収されて、きっとろくに人のことも愛せなくなるんだろう。自分が大切にしていたと思っていた世界は、私がこれまでずっと身を委ねてきた環境に、もう二度と戻れないと思うと、もう生きている価値はまるで残されていないように思われる。

若さピークを迎え、もうあとは無限に落ち込んでいくのみである。これ以上自分になにかを上乗せしようとか、手に入れようとか、そういう気持ちが全く起こらなくなってきた。世の中のことは、すべてどうでもよかった、私が関与しなくても、どんどん滑っていく、回っていく。そう思うと、私が私の目の届く範囲で起こっている出来事に対して一喜一憂していることがとたんと馬鹿らしくなってきたのである。実のところ人間は他人に対して興味がないのだと思う。誰となにを話していても、なんだかくだらなく思う。こんな世界ではなくて、もっとべつの仕組みをもった世界があるような気がしてならなかった高校生のときのことを思い出した。私は教室に友達がいなかったので、教室は私の記憶ではひどく色褪せて、雑音だらけの、ざらついた、血の通わない空間だ。そこから夢見ていた世界に、大学生では確かに近づいた気がした。けれど、もう大学も卒業してしまう。水面から目をのぞかせて、この世界のことをことを覗いているオタマジャクシからカエルになりかけの感じに似ている。ええ、確かに世界のことはわかった。お酒も飲めるようになった、一度だけだけれど、男の人とも付き合った、アルバイトもして働いた、欲しいものは自分で買うようになった。もう体験していないことは一人暮らしとかこの先のいわゆるアルバイトではない仕事とか、研究とかだろうと思う。けどもう、そんなのもたかが知れていいる。みんなが苦しんで傷つけられている様を、ニュースや本やSNSでしょっちゅう見ている。見るたびにうんざりするニュースに、ああもう、こんなところでは生きたくないと思ってしまう。労働と消費の無限のいたちごっこが繰り広げられる東京にどっぷり浸かったせいか、もうなんだか、ただうんざりしている。

「いつまで甘えたこと言ってんだ、お前はそうやって一生甘えて生きていくつもりかよ、ろくに仕事もしないで」「まああなたはまだ全然世間のことを知らないからそう思うんでしょうね。」「大人になれなかったんだね」「いつまで子どもでいる気なの」

知ってる、そんなこと言われることくらい知っている。世間知らずで不必要にナイーブで、変なところで人を疑う、こういう浅ましい精神が自分の人生をより難しくしていることを知っている。私だって自分のそういうところは本当に疎ましく思っている、できることなら脱皮するように、そういう邪気を取り払いと思っている、なんでこんなことになったのだろう。私にだって世界がもっと美しく見えて、本当に、身体も軽くて、世界のいろんなことを素敵だと思う心が健やかな時期があったと思うのに、その時のことがすっかり思い出せなくなっている。なにが楽しくってこんなところまでやってきたのだろうとおもう。なにが楽しくて、何年もの間、活動していたんだろう、これ以降はなにをして生きれば良いのだろう?

私はひっそりと、できるだけひっそりと暮らしていたい。誰にも気にされなくていい、気付かれなくていい。人から何か言われることがこんなに面倒で、不毛で分かり合えない、話し合いもないような意地のぶつかり合いの会話をすることがどれだけ心を削ぎ落としているか知れない。このまま、こういう人々と話ていたら、私は生の、頭を通していない、こころからゆびさきへまっすぐに流れる言葉を失ってしまうように思う。あまりにあまりに、自分の価値観がしっかりしている人たちと話しすぎたので、私はそういうのにもうタジタジになってしまった。そういう人たちとは、一生分かり合えないだろうと思う。この世で正しいと思えることは一つもないのに、揺るぎない信念のようなものを持っている人はどうしてそれを思い切って話すことができるんだろう。疑わしいし、大抵そういう人間の偏った考えには賛同できないので、どうしてそんなに未熟なのに堂々としていられるのかわからず、イラつかされている。ああ、ああ、そうだよ。小さなことに怒りたくないのに、取るに足りない他人の言動にイラついたり泣かされたり、左右されりしている私の人生は、それはそれは不格好だ。